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○佃次郞兵衞伊豫國松前城を守る事

卷之十七 第3話 · 段落 1 · NDL 1078984 281コマ R

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佃次郞兵衞十成は、加藤嘉明の左の先手の士大將なり。からしまの船軍に十成敵船に乘移る時、敵劍にて口中に突入れたれ共少しもひるまず。猶飛込みけるを棒にて冑の上を强く打たれ、海中へ落入りたれ共、水に長じたれば泳ぎ上るを、從者熊谷覺兵衞薙刀を差し出すに取附き、直に敵船に乘入つて、船中の者共を撫切にしたりけり。嘉明船數多乘取られし其一つなり。關ヶ原の時、嘉明は伊豫の松前を出て關東に打向はれしに、十成に、堅固に守れ、と下知して松前に留守居たり。毛利輝元の兵村上掃部、能島內匠、曾根兵庫、宍戶善右衞門等松前を取らんと支度しけり。能島、村上は河野の一族なる故、招かざるに人々從ひなん。豫州を攻取らん事掌の中に有り、と評議し、豫州の人平岡善兵衞と言へる者を嚮導とし、三千餘を率ゐて豫州に打向ひ、使を以て、疾く城を明渡されよ。遲くば踏潰さん、と松前へ云遣りけり。城代加藤內記佃と相謀り、先づ敵を謀るべし、とて、子細無く城を明け渡すべし。然れども妻子を片附くる間を待たれ候へ、と返答す。左も有りなん、と侮りて三津浦に上り、民家に陣して待居たり。大洲の城に藤堂高虎有りて加勢を差し向けられしかば、松前城中の人々悅び合へり。十成獨同心せず。今敵大軍にて押寄せたりと言へ共、謀を設け一戰して義を守るは、弓箭取者の法なり。城を枕にして討死すべし。勝利を得ば生前の面目なり。假令勝ちたりとも、人の救に依りて運を開きたりと言はれん事口惜かるべし、とて禮儀を正しくして辭したりけり。此時國中一揆起り、三津浦に酒肴を贈る由を十成聞きて、雙方の勝負を窺いて見合せ居たる黑田、大溝、永田村の百姓小賢しき者四五人呼寄せ、妻子を質に取り金銀を與へ、能く云含め酒肴を持たせ三津浦へ遣し、嘉明近年松前を領し、仕置宜しからず百姓共困めり。河野一族の人々國に入給はん事百姓の安堵なりと悅び祝ひ申すなり。城中に緣の者候て具に承り候は、嘉明關東へ出陣、軍兵を拂つて連れられし故、今殘り留る者共多からず。大方老衰病者にて一人も軍すべき者無し。佃十成も大病なり。鉛藥も乏く落支度の外更に無し。早や逃去りなん、と口々に云はせたれば、安藝の士大將、さも有るべし、とて彌怠りけり。彼百姓一人立歸りて其有樣を告げ知せければ、さらば今夜風雨の紛れに一夜討すべし、とて嘉明の貯へ置れし白布を、胴肩衣に裁縫ひて配り與へ、十成は背に松の字を墨にて書きて印とし、合詞を定め、首は取るべからず。貝の音を聞かば勝負を止めて引取れ、と約束を定め、慶長五年五月十八日戌の刻に打立ちけり。忍の者歸りて、今夜は村上が陣所に集りて酒盛の半なり。轡山の濱邊に張番の足輕松前の押へに置きたり、と告ぐる。十成、打破りて通らんは安けれ共、途中に滯りて三津浦へ聞えなば、謀徒に成るべし、とて道を替へ、江戶山を越えて子の刻許に三津浦に押寄せ、所々の民家に火をかけて切つて入りしかば、大に騷ぎて物音も聞き分かず。十成薙刀を提げ眞先に進みけるに、掃部、敵寄せたりとて何程の事か有るべき、とて駈け出るを、夜討の大將佃次郞兵衞なり、と名乘つて掃部を突伏せ、敵數多切り拂ひ、貝を吹立てて軍兵を纏ひ、靜々と引取つたり。掃部を始め內匠、兵庫も討たれければ、引退きて久米の鄕如來寺に楯籠る。翌十九日十成又押寄せければ、如來寺にも支へ兼ね道後山に引退く。十成も深手數多負ひて日は暮れぬ。松前に引取りぬ。道後山の安藝の人々近鄕の百姓を相從へ、刈田燒働して松前の城を攻めんとすると聞えければ、九月二十三日、加藤內記道後村へ押寄せて相戰ふ。十成は久米の戰に手負ひて出でざりしかど、重ねて安藝の加勢來らば始終爭か勝つべき。今急に追拂はずば後日の事覺束無し。手疵を痛みて城中に死なんより、敵に向ひ快く討死せん、とて城下の町人近鄕の百姓二百人許集め具足を著せ、妻子を質に取りて帋旗を指させ、十成引具して道後村に駈向へば、味方是に力を得、宍戶、平岡に從ひたる一揆散り〲になりければ、終に風早の浦より船に乘り藝州に引退きけり。關ヶ原の後嘉明松前に歸りて戰功を撰ばるゝに、夜討に首取らざりしかば、十成、村上を討取りたるは明なれども、其功を言はず。生捕の者に尋ぬるに、村上が陣へ先達ちて切込んだる人の、白き肩衣の脊に松の字を大きに書きたるが、薙刀にて村上を突伏せしを間近く見たり、と言ひければ、嘉明、十成が功によりて松前を取られず。殊に安藝の物主三人を討取り、大洲の加勢を辭せし事、勇といひ忠といひ優れたり、とて太閤より賜ひたる物具に感狀を添へて、浮穴郡久萬山の庄六千石を與へられけり。慶長十八年嘉明溫泉郡勝山に城を築き松山と名附け、松山の北に別に一廓を構へ、五つ矢倉をあげて十成を置かれぬ。元和元年大坂の軍にも、十成、嘉明の嫡男式部少輔明成に從ひて淀川を渡り、城兵を討取りけり。同年十成關東に召され、葵の御紋の時服を下されぬ。寬永四年嘉明奧州會津に移りて十成に一萬石を與へられけり。寬永十一年十成病重く、子供どもを集め、吾若かりしより戰場に出る事度々にて、疵を蒙る事十三ヶ所、就中豫州久米の合戰に鐵炮頭の右に中りて、猶其鉛皮の中にあり。然れども運盡きざれば死せずして、斯く老年に及んで病の爲に死せんと覺ゆるなり。是を以て思ふに、弓箭取身は少しも穢怯たる志有るべからず。形見に是を殘さん、とて刺刀1を取りて皮を破り、鉛丸を取り出して前に置き、三月二日八十二歲にて端座して終れりとぞ。
  1. 誤植 — 底本「刺刀」。振り仮名「かふそり」から「剃刀」の誤植か。