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○板倉重宗京都所司代の事附板倉勝重器量の事

卷之二十 第8話 · 段落 2 · NDL 1078984 317コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

板倉周防守重宗京の所司代たりしが、江戶に下りける時松平信綱對面し、公方にも政事に御心を盡され候。京都の事も委細に聞し召し度候。是より後は同職に差し越され候書狀、京都の事詳に記され候へ、と言ひしに、周防守、百二十里の行程隔たりたる事、何程に聰明に御座しますとも、及び腰なる事は得知し召されじ。其故に周防守を京に指置かれ候事なれば、申上ぐるに及ばず、と答へたるを、偖は周防守は致身者なり、と感ぜさせ給ひけり。
重宗の父を伊賀守勝重といふ。初は四郞右衞門とて祿五百石なりしに、京都の所司代を仰せ出され、二萬石賜はりけり。是は本多正信が薦め申せし故となり。勝重仰を奉りて佐渡守に向ひ、重職の任を身に受け候事に候程に、歸りて妻なる者に相謀りて、若し同心せずば職を固辭申上ぐべき由申しけるに、正信打頷く。勝重家に歸りて、斯る仰を奉りしなり。重き任なれば內緣を賴み訴する者有るべし。公私に附きて口を添へられずば、仰せを畏り奉らん。若し少しにてもいろはれんとならば、只今其由申して京には赴き候はじ、と言はれければ、こは如何なる事を宣ふぞ。仰を畏らせ給へ。女の身如何で公の御事に携り申すべき、と言はしければ、さらばとて出づる時袴の腰を捩らして著られしを、夫は如何に、と言はれければ、勝重、さればよ。斯く有るべしと思ひしなり、とて重々に戒めて後、仰を奉りたりと世には言ひ傳へたり。勝重、尾張の惠阿イ河寺といふ曹洞宗の長嚴和尙が弟子にて長祐と言ひしが、還俗して四郞右衞門と言ひけり。勝重嫡男を重宗、次男を重昌といふ。二人共江戶に在り。或時大猷院殿訴訟を一つ巧に構へさせ給ひ、二人を召して、判斷せよ、と仰有りけり。重昌仰を奉り、理非分明に決定して退出す。重宗稍久しく思慮して後、重ねて決斷の旨を申し上げ候はばや、とて退出し、二三日過ぎて後御前に參り、判斷の旨を申したるに、弟の重昌が申したるに相同じ。人々、兄に勝りたる重昌なり、と賞め合へり。其後勝重京より江戶に下りし時、大猷院殿彼の訴の判斷の事詳に示させ給ひ、重昌が才器を御感あり。勝重承り、內膳正は若氣にて思慮無く候。周防守は國家の政事を取り候とも其任に叶ふべし。其故は、訴を判斷する事は政事の一つの條目にて候。政事は至つて重き事にて、一言を以て天下の利害に係り候。苟に極め申すべき事には非ず候。政事は大事と繰り返し思慮致し候へば、重宗は政事を執り候とも仕損ずまじく候。只打見たる所を以て己が智慧を人に見せんと存ずる所は、重昌が若氣と申す物にて思慮無く候、と申しければ、御感淺からざりしとなり。其後、伊賀守年老いたり。所司代の職に任ずべき才を選び候へ。汝が替にせばや、と仰せ有りしに、勝重、子にて候周防守、所司代の任に叶ひ候由申したりければ、內々其如く思召されしと仰有りけり。周防守は斯くとも知らで御小姓にて有りしに、父伊賀守が替りに仰せ出されけり。周防守上京せられしに、伊賀守衣服を改め、左右の職に居る人を並べ置き、記祿をも悉く取出し、周防守を上座に招き、謹で江戶靜謐の事を窺ひ、今日より所司代なれば萬事引渡し候、といふ。周防守、只今まで御側に仕へ奉り、世の有樣努努存じ候はず。仰にも父を見ならひ候へとの事なり、と申されしに、伊賀守、否々其職に居るべき者なりと擇み出されし故、斯る重任の仰は奉りたりと覺ゆるなり。人の心は面の同じからざるが如し。我に附き添ひ居たればとて、我に離るゝ時は自ら決斷するより外の事無し。汝が不才を隱しなば、五畿內は言ふにや及ぶ、西國までも禍有るべし。些とも飾る事有る可からず。只不才と表すを第一とすべし。不才を知召されなば、其任に當るべき人を擇ばれて仰せ附けらるべし。更に恥辱に非ず。今日より所司代の職に居るべし、と言はれしかば、周防守其詞に隨はれぬ。勝重は町家を借り置きたるが、其處に引移り、碁を打ちて口ずさみに、今度の所司は嚴しいものよ。我をあひしらひたるが如くならば、必ず罪せられなん、とて碁を打つてありしとぞ。