○後藤又兵衞花房助兵衞見切暗合の事
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此時戶川肥後守達安を始として、烟紛に附けん、と言ひしに、花房聞きて、城中に後藤といふ功者あり。必ず兵を伏せ置きたるべし、と止めて附けざりけり。烟消えて見れば、花房が云ひし如く果して敵待ちかけ居たり。其後和平に及んで、肥後守が弟彌左衞門、後藤に對面し、樣々の物語する時、千波の事を云ひ出し、備前勢の附けざるは如何に、と問ふに、兩人の計りし事更に違はざりければ、人々聞き傳へて稱しけり。花房助兵衞職之は秀吉の心に忤ふ事有りて、佐竹が許に流され居けるに、東照宮御心を附けられ、花房が子を武州長榮山本門寺の上人に預け置きしを、後に榊原康政養ひて飛驒守といふ。助兵衞老衰、席上にも人に扶けらるゝ程なりしに、東照宮の仰にて大坂の軍にも從ひたり。乘物にて攻口に向ひ、軍急ならば吾乘物を敵に向つて棄てよ。爰を墓と思ひて出でたり、とぞ云ひける。東照宮御打廻の時、道の傍に乘物を置き、其中に蹲居したりしを、戶川肥後守斯くと申せしかば、花房大事の時と思ひ、武を好む事、老いぬれども志は衰へず。誠に大丈夫なり、と仰せられけり。