大坂落城の時、渡邊內藏助糺は矢倉にて二男三男を刺殺し、乳母に、嫡男を連來るべし、と言ひけるに、乳母、心得候。白き帷子を著せ參せ申さん、といひて其場を遁れ、澁帋に包み繩をもて塀下にさげ落し、其身も遁れ得て彼子を市中の厠に隱し置き、日數經て逃去らんとせしを、關東の軍兵に捕へられぬ。色々責問ひたれども、渡邊に從へる士水谷淸兵衞といふ者の妻にて、我實子に紛れ無し、とて其餘の事を言はず。彼子も僅六歲なりしかども、如何に責められけれども、內藏助が子たる事をいはず。さらば金二兩出さば助くべし、と言ひしかば、乳母則舊鄕渡邊に到り百姓に賴みしに、さすが舊好を思ひ、且は乳母の忠義を感じ金二兩授けしかば、則ち彼小兒を乞ひ得て京都に赴き、南禪寺の喝食となしぬ。十八歲に及ぶ時、細川越中守忠興、一柳土佐守末榮など緣の方より還俗させられしかば、程經て文照院殿甲府に御座しませし時、此事を嘆きて遂に甲府に仕へ、渡邊權兵衞とて五百石賜りける。內藏助は大野に、秀賴公の御命別儀なく御座さん樣を計り見よ。時を待つべし、とて江州に落行きけるが、秀賴自害の由を聞きて、立ながら腹を切つて死したりけるとぞ。