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○水戶義公御事業の概略

卷之二十四 第3話 · 段落 4 · NDL 1078984 366コマ L

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水戶中納言光圀卿は、賴房卿の第三の子、東照宮の御孫なり。寬永十年威公の嗣未だ定らざりしかば、嚴有院殿の仰にて中山備前守信吉水戶に至り、光圀卿三つに成り給ひしを見て、斯と申上げて嗣に定まりぬ。正保二年史記の伯夷傳を讀みて深く感ずる處あり。是嗣は兄の賴重立給はん事なるに、斯く定まりつれば、長子の方に家を讓るべき志此よりして起れり。是より又學問を好み給ふの志篤し。明曆三年より大日本史を撰び始めらる。神功皇后を帝紀を黜けて后に列し、大友皇子を天子と定め、南朝を正統と立てらる。皆此君の義烈なり。寬文三年賴房卿卒去あり。葬禮僧家の法を用ひず、瑞龍山に葬り威公と謚し、廟を水戶の城中に立てられ、祭祀の儀式を定め給ふ。殉死すべき士有りしに、自ら其家に至りて止めらるゝに、其理正しき故に殉死を止りしかば、此事聞えて、殉死天下一統停止の旨仰出されしは此君の故なり。又兄の賴重卿の子松千代綱方を、强ひて養嗣とせられん事を乞ひて、若聞入れられずば世を遯るべき志なりしかば、賴重卿許諾あり。松千代の弟采女綱條をも引取り養ひ給へり。明朝の遺民朱之瑜といひし文學有る者、淸朝の粟を食せじとて日本に渡りしを、筑後柳川の文學安東省庵、其俸祿の半を分けて養ひ置きしを、召して師とし給へり。綱方病によりて卒去有りしかども、弟綱條を養ひ置かれし故、卽ち世嗣になし給ひぬ。延寶元年孔子の堂を水戶に立て給はん爲、江戶駒込の屋敷に假の設をなし給ふ。日本古よりの假字の文章を編みて三十卷となしたるを、天聽に達し、後西院の帝名を扶桑拾葉と賜はり、卽ち獻じ奉り給ふ。天和二年朝鮮の使臣江戶に來り、三使進物の目錄禮儀を失せる故、三條の疑問有りしに、答ふる詞無かりしとなり。後西院の帝の勅命により、鳳足といへる御硯に銘を作られしかば、宸筆を下し給はりて賞美せさせ給ふ。其御詞の中に、備武兼文絕代名士といへる句有りしを、印に彫らせられしとなり。元祿三年領國を綱條卿に讓り給ひ、權中納言に任じ給ひしが、程なく辭表を奉りて、歌に、
位山のぼるもくるし老の身はふもとの里ぞ住よかりける
是より常陸の久慈郡太田鄕の西山に引籠り給ひしに、山莊の有樣萱をもて葺き門垣には蔦蔓ひかゝり、只竹垣一重にて池に蓮を植ゑ、西山のほとりに桃數百株あれば、川の流の橋を桃源橋と名附け、鹿を放ち鶴を飼せ給ふに、よく馴きけり。瑞龍山に壽藏を設け衣冠を埋み、碑陰の銘を自ら作り給へり。久慈郡小野平村旗櫻寺に祠堂を建て、賴義、義家の神主を置かせらる。又攝州湊川に楠正成の墓を修し、碑を立てて碑面に、嗚呼忠臣楠子墓、と自筆し、陰には舜水の撰びし讚を彫らせられ、又舜水の碑を瑞龍山に建てられ、其文集を輯して、門人源光圀と稱し給へり。彰考館を作りて和漢の群書を集められしに、遠國他鄕に學士を遣し、半帋一行の反故をも見るに隨ひ拾收め給ひける程に、色々の書ども編集有りけり。中にも禮典類聚五百卷は日本古來よりの寶典と稱すべしといへり。寬文五年領國中の淫祠三千八百毀ち捨て、新地の寺院九百九十七除かれ、多珂郡にて廣野有りしに、馬を放ち牧となし給へり。地の利を盡す術に心を盡され、海參白魚昆布をひ沼が浦に撒き、海に蛤を放ち、是より海物多く出づ。山には漆楮多く植ゑさせ給ひけり。元祿十三年西山に逝去あり。義公と謚せしとなり。
國初より已來の諸侯の中に、會津の神公、水戶の義公、備藩の芳烈公、三公の如きは寔に非常の君と稱し奉るべし。神公の事詳なる事を知らず。義公の一世の事跡西山遺事に審に記したれば、只一二の大なる事を記せり。吾藩の芳烈公の學校を作り賢才を招き、禮を以て度となし給へる、異國をいはば衞の康叔武公、燕の昭王の如き君を幷せて芳烈公に比倫すべきや。予別に記せる物あれば、此篇には詳にせず。