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○渡邊數馬報讐始末の事

卷之二十四 第4話 · 段落 9 · NDL 1078984 368コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

渡邊數馬弟源大夫が仇河合又五郞を討ちけるは、寬永十一年十一月七日の事なり。もと數馬は松平宮內少輔忠雄に仕へて、忠雄備前岡山に御座しける比、寬永七年七月二十一日、城の大手にて踊興行ありけり。其夜數馬は妻の父津田豐後が方に行きけるに、河合又五郞數馬が宅に來り、心易かりしかば、源大夫と物語しけるが、如何なる故にや主從四人にて源大夫を切殺し、又五郞は脇差の鞘を落して行方知れず成りぬ。折節踊見んとて群集しけるに、數馬が下部岩佐作兵衞煩ひ居しが、外の騷を聞き出でけるに、路次の內より刀を提げたる者に出會ひ、何者なれば士の家に刀を拔きて入りしや、と詞を懸けたる所に、徒目附の遠山才兵衞も來り合せ、彼者を切止めけり。
一說に、步行の士三村孫右衞門通りかゝり、內の騷を聞き走り入りて是を聞き、又五郞を追駈けんとする處に、何者とも知らず玄關に走り入る者あり、孫右衞門を見て逃げんとするを切伏せたり。之は又五郞が下人に言ひ附けて、源大夫に止を刺させん爲に戾したるなりと後に聞えしとなり。
源大夫は深手負ひて、又五郞相手なる由いひて死しぬ。豐後が方に告げければ、數馬も豐後も又五郞が父半左衞門方に行き、對面すべし、と言へ共、門を固く鎖して入得ざりける。中に長臣荒尾志摩、忠雄の近習加藤主膳駈來りて、半左衞門は二人して受取りぬ。忠雄、半左衞門をば菅權之介に預けられけり。半左衞門初は安藤對馬守重信に奉公せしが、故有りて忠雄懇にせられしに、半左衞門口論して相手を斬り、出奔して渡邊數馬が許に來りしを、潛に匿して祿を與へられし身なれば、又五郞を出して、腹切すべきものと忠雄思はれしに、半左衞門は更に其志に非ずして、又五郞江戶に行きけるを、安藤治右衞門匿し置かれけり。久世三四郞、阿部四郞五郞兩人、忠雄の許に年久しく來れる人なれば、治右衞門に斯くと言はれけるに、治右衞門申しけるは、半左衞門を渡されなば其儘又五郞を出すべし、との事にて、此旨を兩人忠雄に告ぐれども、尙も覺束なき體なれば、兩人、慥に又五郞を請取り出すべき、との起請文を忠雄に出す。さらばとて、半左衞門を江戶に召下して取替ふべし、との事に及びて治右衞門朋輩共申す旨あり。仲間を除くべき故是非に及ばず、と忠雄に申す。忠雄其欺く事を怒りて、忠雄一族の人々心を合せ、押寄せて奪ひ取らんと支度あり。
三家の御方和平の取計ひ有りけれども、未だ事遂げず。半左衞門は池田備中守長幸の許にあり。斯る處に忠雄痘瘡を病みて卒去あり。弟の松平石見守輝澄、同右近大夫輝興、三家の御方に訴へ申す旨ありけるに、長幸も卒去ありて、半左衞門は松平阿波守忠英請取りて、阿州に赴く道にて死す。安藤を始め咎を蒙り、閉門仰せ附けられけり。寬永九年七月、備前因幡國替を仰せ出さる。此時數馬立退きて備前の兒島にあり。又五郞が行方を尋ぬれども知れず。數馬が姉聟荒木又右衞門大和の郡山に在りけるが、又五郞が伯父河合甚左衞門も同じく郡山に在りて、暇を申して奈良に出でける故、又五郞が行方を聞かん爲に、數馬、又右衞門が方に行きしに、又右衞門、數馬一人しては危し、助太刀せん、とて明くる年の三月迄荒木が許に止め置き、三月又右衞門暇を乞得て郡山を出でにけり。是は甚左衞門が惡口しけるに因れりともいへり。さて數馬、又右衞門は攝州丹生の山田に妻子を預け置き、四月に江戶に赴き、所々搜りけれども行方を知らず。甚左衞門をば時々見かけしかども、誠の仇にあらざれば打過ぎけるを、甚左衞門は嘲りけるとかや。斯て又丹生の山田に歸り、明くる寬永十一年大猷院殿御上京により京都に赴き、方方尋ねけれども行會はず。又丹生の山田に歸り、其後又五郞有馬に行くと聞き、有馬に行けども行會はず。奈良に甚左衞門が妻子在りければ、十月朔日奈良に行きて潛に聞くに、甚左衞門が方に又五郞匿れ居て、十一月六日江戶に赴く由なれば、其夜押寄すべきとせしが、奈良は商家の事なり。途中にて討つべし、とて數馬、又右衞門主從四人、甚左衞門が邊に立明しけり。六日の朝、先は甚左衞門、中は又五郞、其跡に櫻井半兵衞、是は又五郞が妹聟なり。弓、鐵炮の上下二十人なり。七八町許も續きて行くに、又五郞其日は伊賀の島が原といふ所に宿す。四人見知られてはと裏の道も無き所を蹈破りて、三町許も行過ぎ宿を借らんとすれば、怪しみて、島が原へ、心得られざる人こそ四人宿を借りつれ、と告遣す。其由を又五郞が旅宿へ知らせたり。數馬も又右衞門も、敵に覺られじ、と夜深く出でて、山籠して伊賀の上野小田町に暫の宿をかり、最期の酒宴して待ちかけたり。肴は無しや、といへば、是をなりとも、とて鰯を三つ出す。皆頭無し。數馬、目出度し、といひて、主人に酒の價を、とて金子二十兩許投出し與ふれば驚きたり。是を限なれば何の爲にせん、といふ處に、主人の女房鰹節を出す。數馬、心の附きたるよ、とて頂きけり、又右衞門著たる羽織を脫ぎて主人に與へ、庭に飛出でて躍上り〱したる有樣、健なる男の、今日を限りと思ふ氣色あらはれて、只鬼なども斯あらんと見えし、と人後に語りけり。七日の朝又五郞島が原を出て上野にかゝる。又五郞は思ふ仇なれば、數馬、討留むべし。甚左衞門は又右衞門立向ふべし。半兵衞は又右衞門が若黨武右衞門、數馬が若黨孫右衞門兩人懸合ふべし、と相定め、間近くなりければ、又右衞門眞先なる甚左衞門に詞をかけ飛懸り、
馬より切つて落す。甚左衞門刀半抽きかけしを、二の太刀にて討留めたり。半兵衞は鎗の上手と聞えしかば鎗を取らせず。馬より下りんとする處を、武右衞門一太刀切つたりけれども、淺手にて下り立つたり。從者鎗押取り、半弓をも射かけ、透間無く切つて懸りしかば、二人爰を最後と相働きける所に、又右衞門駈來りて多勢を切りまくり、半兵衞に渡り合ひ終に切伏せたり。此時又右衞門刀を打折りけり。其刀伊賀守金道が作なりけるとぞ。數馬、又五郞と切合ひける處に、又右衞門は從者を追散し駈寄りて、數馬よくせよ、助太刀はすまじきぞ。叶ひ難くば代らん、と詞を懸けければ、
數馬飛込んで又五郞を討止めたり。斯る處に、藤堂高次の士彥坂嘉兵衞上野に在りけるが、數馬が親類なりしかば駈來り、其外上野の士數多集り、數馬、又右衞門主從とも嘉兵衞方に引取りぬ。又五郞、甚左衞門は其場に死し、半兵衞は息かゝり居けるを、引取りたれば程無く死す。數馬十三所手負ひ、武右衞門痛手にて其夜半に死す。孫右衞門手十所負ひたり。斯くと藤堂家に聞えて、三人は嘉兵衞方に暫く有りしが、藤堂式部が許に年月を送る。式部死して藤堂出雲に預けらる。寬永十五年六月江戶より仰出さるゝ旨ありて、數馬、又右衞門も藤堂家に下し賜はりけり。斯て江戶の彥坂平六郞、數馬が一族たりしが故、藤堂家に申乞ひて松平勝五郞光仲の許に貰ひ賜はりたり。因幡に赴くにより同年八月七日上野を出る。藤堂玄蕃、弓五張組の騎士二十人、玄蕃が騎士五人、藤堂出雲、外に母衣の者組の騎士四十人、彥坂嘉兵衞、鐵炮頭三人、鐵炮九十挺、弓頭二人、弓四十張、田中源兵衞步行の士二十人引續きて、伏見因幡の屋敷に贈られしかば、請取の爲に因幡の士橫川治大夫父子鐵炮二十挺、渡邊越中鐵炮二十挺、伊吹源太兵衞父子鐵炮三十挺、宮脇平太左衞門弓十張、伊賀の者五人、片上彌二兵衞父子鐵炮二十挺、松尾惣左衞門父子伊賀の者六人、福田權兵衞步行の士二十人、宮脇德兵衞、田中六郞右衞門其外弓の者二十人出逢ひて因州に赴く。伏見より川舟にて下り、海上の船は備前芳烈公の許より出し給ひ、松平輝澄の方よりも船を出し、大小三十艘播州坂越より陸路を經、地主より馳走の士出迎へて草深き所を苅らせ、道筋山々遠見を出し、夜は篝を燒かせ、鳥取の城まで、三泊にて引取らせられけり。仇討ちける時、數馬二十七、又右衞門三十、河合武右衞門四十、岩本孫右衞門三十八歲とぞ。