美濃大垣にて、八月二十四日より九月四日まで鐵炮迫合有りけるに、輝政公と西國方との迫合の間に藪ありて、夫へ便りて敵より鐵炮を放し懸くる故に、此藪の敵を追拂ひ、此方へ取つて竹を切拂ひ、さはりなき樣にすること可なり、とて、山脇源太夫、竹村伊豆、八田豐後、此三人の番頭に仰せ附けられ、三人ともに組鐵炮を連れて出張し、敵を追拂ひ藪を切拂ひて、三備共に引退かんとする時、敵喰留たる時、八田氏殿後にて追駈くる敵を追拂はん、と足輕に鐵炮を打たするに、急なる場故云々打ち難し。此時豐後長臣柏原杢右衞門足輕の中に慥なる者三人を招き、鐵炮に玉藥をつがせ追來り、敵中へ杢右衞門取返々々十四五程鉛子を放し、馬上の敵三人程に中て、夫にて辟易して敵引退きたるとなり。柏原も引退く時に、右の玉藥を込みたる足輕の居處を見るに、砂の中を堀りて、其中に居て玉藥を込みたるとなり。穴を堀りたる體を柏原は不㆑見、急なる時によく堀りて、入りて玉藥を込みたること、と笑ひたるとなり。柏原は柏原市右衞門の先祖なり。輝政公より播磨の御普請場にて、御褒美に緞子の羽織を被㆑下となり。其謂は、天下普請の時黑田殿の衆と口論し、齒を少し折られながら相手を切倒し、利を得て金銀を以て入齒をしたるとなり。此事を仰出され、彼入齒の者かと有りて御褒美被㆑下しとなり。