秀吉尾張に發して、信雄、源君を征せんとす。先泉州岸和田の城中村式部少輔一氏を籠め置き、紀州の根來雜賀の一揆を押へしむ。信雄密に根來雜賀の一揆を勸めて、秀吉大坂を發せば、必ず其跡を攻めて秀吉の巢穴を破れ、と言はせられば、一揆等同意して、天正十二年三月十八日、二萬計海陸に分ちて堺の浦へ働出て、大坂の空虛を襲はんとす。一氏下知して、大敵なり。容易に戰はば尾張の御戰に害有るべし、とて一人も不㆑出。泉州の國侍に、眞鍋五郞右衞門貞成此時號次郞俊成號主馬大夫十七歲、一氏從て城中に在りしが、一氏に乞ひて、一揆船手を働くと見え候。某在所大津に家人の妻子を差置き候へば、參りて片附け候はばや、と申しければ、一氏、尤なり、とて許㆑之。眞鍋手勢百三十餘にて大津に歸れば、舟手の一揆大津を差して押來る。大津の混亂不㆑斜。留守に殘りたる者共、昔小城の有りし跡も妻子を連行き戶板疊などにて圍ふ所へ、眞鍋出來れば少しは安心すと雖も、一揆は千餘騎味方は百餘、對當すべきにあらざれば、士卒危み恐れて敗走の機有り。眞鍋が與力に秋山又之丞と號する大剛の勇士有り。其已前一日に鎗を七度合せたる程の覺の者なり。眞鍋に向ひて、斯樣なる時節が肝要なり。大將の心狼狽へる時は、士卒役に不㆑立ものなり。能く〱合點ありて下知せられよ、と云ふ。眞鍋、其仕方は如何。秋山が曰く、今の仕方三つ有り。第一は妻子を古城へ取籠め、城に據りて戰ふか。第二は妻子を堺の津へ退けて、我々は眞丸になり、圍を突破り岸和田へ駈入るか。第三は妻子を連れで1堺の津へ退くか。此三つより外なし、と云ふ。眞鍋盔の緒をしめながら、三つの謀上中下は如何。秋山が曰く、その一は上、其二は中、第三は下なり。眞鍋、しからば妻子諸共古城に據りて戰ふ謀を用ひん。秋山聞きて、左あらば一人も殘らず擊死すべし。不㆑苦や。眞鍋が足をふみ刀を拔いて金打し、愛宕八幡此處に討死すべきぞ、と言ひて思切つたる有樣なり。士卒是に勵まされて必死を思ひ定めたる體なり。眞鍋海上を見やれば、敵船已に近附きけり。敵は十倍の勢なり、取卷れては叶ふまじ。迎へ戰うてこそ、とて濱手に出て備を設く。田賀井別齋、秋山又之丞下知して、敵の舟より半ば上る所を、鐵炮を打立てさすれば、敵兵打挫かれて懸り兼ねたる處を、眞鍋白旗を振つて先隊八十餘騎小松原より突懸り、眞鍋が兵田賀井左吉右衞門一番鎗を合せ一揆を追立つる。惣軍亂討ちて、一揆を海へ追浸して討取る數多し。やう〱返し來る敵をば、眞鍋が兵波防の芝手に弓鐵炮を伏せて、打立々々防ぎければ、敵船さん〲に亂れて遙の沖に引退き、敢て可㆑寄氣色もなし。一氏は眞鍋が働如何と思ひ、蜂須賀小六家政後阿波守蓬庵と稱すに二千餘騎差添へて迎に遣しければ、眞鍋は思ふ儘に勝利を得て、妻子を引連れ蜂須賀と打連て岸和田にかへる。
- 誤植連れで — 底本「連れで」。「連れて」の誤植か。