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○家康公慶長五年七月會津御發向の事

拾遺 卷之四 第2話 · 段落 1 · NDL 1078984 423コマ L

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關ヶ原御陣起り候始め、慶長五年七月、家康公、秀忠公數萬にて會津へ御發向なされ候。是は景勝上洛致されず、香椎原に新城を取り立て、諸浪人を集め道橋を修理し、籠城の用意と聞し召し御退治の爲此の如し。景勝大に驚き、香椎が原新城は、直江山城守上意を得て公儀濟みたる上なり。又在國は秀吉公御在世の砌り、五年在國の御暇濟みたる所なり。然れども押附けて御征伐も有り候は、弓矢取る身の習一矢仕るべし、とて百三十萬石の諸士殘らず呼集め、洞菩提所雲洞院と謙信御影堂毘沙門堂に於て一紙の起請文を書かせ、妻子を會津の城へ籠め、口々に燒草を込めおき、景勝は家老物頭を集め、會津は七口あり、殊に脊炙南山口は會津を見下し、中々籠城なる所にてなし。家康公御父子白川口に著陣候はば、逆寄に仕かけ野合の一戰を遂げて、勝ち候はば後を追うて、江戶は扨置き都迄切て登るべし。負候はば士卒も諸共白川を枕にして討死仕るべく候。下野と奧州の境白坂より白川まで二里の間、草籠が原と云ふ所あり。好き戰場なれば竹木を切りかけ地形を切平げ、白石城を大手の一の木戶とし、一番合戰は安田上總介一萬三千餘、二番合戰は島津月下齋二萬七千餘白川の城に籠り、家康公御父子御著陣候はば草籠村へ押出し一戰し、若勝たずば白川の城へ引籠り、四方の人數同枕に討死を可㆑遂と定め、士卒上下繼帷子血脈を頭にかけ打つて家康公を待かけ候。景勝只一騎脊炙南山口の嶺に登り、長沼の地形を見て、夫より樵夫を案內者にして山中を通り、白川口境の明神に到り、人數押の道を見積り、密に了簡を定め候は、家康公白川の城を攻められ候所を、長沼より兼て見置き、山中を人數を引つれ境の明神に到り、家康公陣取の後へ出で旗本へ切つて懸り、手詰の勝負を可㆑決とつもり置き候。上杉家中に誰も知る者なし。近日家康公御著陣、御先手榊原式部太輔康政已に大田原に著く。大田原は白川より一日路なり。景勝之を聞きて八千餘を召しつれ、密に會津を出で、南山脊炙を越え、此山を脊に當てて長沼陣取、家康公白川表へ御著陣御一戰候はば、山中を推著き思ひも寄ぬ後へ廻り、家康公御旗本へ切つて懸り申すべき覺悟にて陣取り候。八千は餘小勢に候、と家老共異見仕り候へども、謙信已來の吉例とて承引無㆑之。直江、齋藤、千坂等申し候は、謙信公御代の古兵共過半死失せ、物慣れざる人數八千は如何に候、と申候。景勝は、勝利を得ば八千に不㆑過候へども、皆々申す所餘義なし、とて許容有り。これにより千坂、齋藤、新津、三室寺等三萬にて長沼へ行きたり候へども、景勝差圖にて三里後に陣取り候。若し家康公白川へ御著陣候はば、御大事に罷なるべく候所に、上方にて治部少輔を始め、五畿內西國一圓に亂れ伏見へ取懸り候由、家康公小山より江戶へ御歸城なされ候故、景勝手立相違仕り候。若し白川城御攻めなされ候時、景勝八千にて御後より不意に仕かけ候はば、殆ど御一代の御大事たるべきに、兎角御運强き御大將、と其已後取沙汰仕り候。右の通り故景勝も會津へ引入り申され候。