藩翰譜本文データベース

家一覧 › 第四下 › f038

戶田

第四下 · 段落 1 · 780521 48コマ Lから

人物地名官職家日付索引一覧
この家によく出る人物・地名

人物 14 5 4 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左門藤原一西は、德川殿の御內にて、當時に名を得し勇士なり、一西が事、甲陽軍鑑等にしるせる事少からす、○此人元は戶田にあらずといふ、或人の曰く、一西が妻は、二連木の戶田松平丹波守康長の娘、德川殿の御姪なり、思ふに康長初め聟ながら子として、名字を名のらせしにや、いまだ其家の系譜を見ざれば、詳かなる事をしらず、此人一生の高名、多き中にも、元龜二年五月、武田入道信玄、吉田の城に向ひ、まづ四郞勝賴山縣三郞兵衞尉昌景が勢を分て、城を攻めんとす、酒井左衞門尉忠次、諸軍を下知して、打て出づ、一西眞先に進み戰つて、武田が家の侍一人當千と聞えたる廣瀨鄉左衞門尉と、互ひに名乘て鎗を合はす、甲陽軍鑑等に出つ、○按するに、家忠日記增補に、戶田廣瀨やりを合せし事は、此後天正三年武田四郞勝賴が代になりて、長篠を攻めし時の五月六日の事と記せり、覺束なし、天正三年五月六日の戰は、吉田の城外はじかみ原にての事なり、また天正三年八月遠江國小山の城を攻られし時、武田四郞、二万餘騎を引率し、後卷すと聞えしかば、引返させ玉ふ所に、城中よりも打て出づ、一西酒井左衞門尉忠次大津土左衞門と同じく取て返し、追ひ來る敵を打破る、其後天正十八年、小田原の城攻られしに、一西して、御手の人々の軍する樣を見せられたり、諸手働き目付といひしなり、今年關東に移り玉ひしかば、武藏國鯨井の地を賜り、五千石慶長五年、東西一時に軍起りし時、中納言殿に屬ひ參らせて、山道より馳上り、信濃の國に至り給ひ、眞田安房守昌幸が籠たる上田の城を攻めさせらる、評定あり、本多佐渡守正信、只打捨て御通りあれと勸め參らすれば、宗徒の人々、正信の計にこそ因るべけれとて、申旨もなし、一西一人進み出て、某が存ずる所、速に攻められんには若くべからず、殿の御軍は、今ぞ始なる、御年も盛りになり給ひぬ、道の邊りに出向て、御勢遮らんずる敵をば、一々打破て御通りあらんずらんとこそ、大殿にも思召べけれ、夫に只すご〱と通らせ玉はんも、餘りに、穩便に覺えて候と申、佐渡守正信大に怒て、たゞ正信に任せらるべしとて、御供して上りしに、關が原の戰事終りぬ、一西が申せしに違はず、上田を攻めさせ給はぬ事、大御所の御氣色宜しからず、此時に至てこそ、人々も口惜き事に思ひたれ榊原が傳合見べし、明れば慶長六年二月近江國大津の城は、要害宜しからず、勢田に移して、一西にたふべし1とて國々の大名に課せて、膳所が崎に城築かる、奉行八人を附て、夜を日に繼て、催されし程に、功頓て成しかば、所領餘多附て、一西にぞ賜りける、三万石を領す、○按するに、此城は當家天下を知召して、最初に築かれし所なり、一西此城に在る事三年にして卒し、子息左門氏鐵父に繼く、大坂の兵起し時、大御所都に上らせ玉ふと聞て、矢橋の浦まで御船を參らせて、御膳を薦め奉る、我身は仰を承て、此城にぞ留りける、元和二年、攝津國尼が崎の城に移り、五万石寛永十一年七月十六日、從四位になされ、同十一月美濃の國大柿の城に移る、十万石同き十五年の春、肥前國島原の逆徒追討の御使として、松平伊豆守信綱と共に馳向て・九國の軍勢を下知して攻亡す、同き十八年八月三日、若君御誕生在しかば、氏鐵仰を蒙て、御竹刀を獻る、慶安四年十一月廿八日、致仕入道して、常閑と號し、明曆元年十二月十四日、七十九歲にして卒す、嫡子采女正氏信父に繼く、寛文七年十二月廿八日、從四位下に叙し、同き十一年七月十八日致仕剃髮して、一閑と號す、嫡子左門氏包讓りを受く、其子釆女正氏定といふ、
  1. — 底本のまま。「一西にあたふべし」から「あ」が抜けた底本の誤植とみられる