土佐守藤原尊次は、三郞右衞門尉忠次が二男なり、忠次は先祖彈正左衞門尉宗光が代より、三河國田原二連木今橋等の城を領して、當國に威を奮ひ、詳なる事は、松平丹波守康長の傳に見ゆ、其後子孫うち續き永祿の頃ほひ、旣に本領を失ふ、三遠記に、永祿七年、田原へ向ひ玉ひ、戶田吉兵衛降參す、頓て本多豊後守して守らせらるゝと記せり、此說の如くなれば、田原をば德川殿のために亡されしなり、外に見ゆる所なければ本文には載せず、庄左衞門尉光忠、西三河に落行き、終に鳴原にして討死す、三郞右衞門尉忠次はこの庄左衞門尉光忠が男なりけり、光忠田原にあり、宗光が曾孫にして、左近尉政光が子なり兄彈正少弼康光が跡をつぎし由を申なり、詳なる事を知らず、斯て永祿六七年の際、三河國野寺佐崎土呂針崎等の寺僧、德川殿に恨み申事ありて、故の吉良義昭を大將になし立て、軍勢を催し、おのが院々寺々に立籠り、彼の檀越の御家人等、彼に組みするもの八百餘人、三郞右衞門尉忠次は、此時佐崎の邊りに忍び住む、戶田一門の人々は、德川殿に年比不快なりとて、まづ上宮寺に迎へ入る、戶田むかし德川殿を取り參らせし時、忠次年十八歲、一門の少者なり、その謀事に預るべからず、忠次既に上宮寺に籠つて、德川殿の御勢と戰ひ、一日の內、高名の鎗三度に及ぶ、
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戶田(田原)
この家によく出る人物・地名
人物 戸田忠次 48徳川家康 21戸田尊次 3戸田光忠 3遠山景政 3戸田忠能 3戸田宗光 2山田八蔵 2酒井忠次 2蜂屋貞次 2本多信俊 2戸田忠清 2豊臣秀吉 2松平康長 1戸田吉兵衛 1本多広孝 1戸田政光 1戸田康光 1吉良義昭 1大久保忠世 1井伊直政 1大久保忠教 1本多新三郎 1馬場小平太 1
地名 三河国佐崎 4関東 4三河国田原 3三河国岡崎 3伊豆国下田 3摂津国大坂 3三河田原城 2三河国土呂 2三河国針崎 2三河上宮寺 2遠江国浜名郡 2尾張小牧山 2尾張大野城 2相模国小田原 2甲斐国 2美濃国関ヶ原 2三河国 1三河二連木城 1三河今橋城 1西三河 1三河国鳴原 1三河国野寺 1三河国上和田 1三河吉田城 1
此とき忠次、大久保七郞右衞門山田八藏等と鎗を合せし由、德川殿井伊兵部少輔に御物語ありしといふ、按ずるに家忠日記增補に、兵の起りしは永祿六年九月三日にて、忠次が參りしは、此月の六日と記す、據あるにや、此記によれば、忠次が參りしは最初の比なり、大久保が物語にも、最初に參りし由にみえたり、又大久保一門殘らず上和田に在て、針崎に向ふ、佐崎には向はず、忠次此日に山田と鎗を合せしは知らず、大久保と鎗を合すべきやうなし、思ふに大久保との戰ひは、むかし田原のいまだ亡ひずして、德川殿と戰ひありし時の事にあらずや、德川殿忠次が彼寺にありと聞召し、頓て御使を賜て、忠次かゝる時節に及びては、眞先に參るべき身の、何の故にか御敵には候ふらんと仰下されしかば、仰せ愼んて承りぬと申て、城中の人々に向ひ、忠次今日岡崎に參るべき由の、御使を給ひぬ、つら〱事の情を案ずるに、忠次元より德川殿に向ひて、恨み申べき謂れなく、また此寺の檀那にもあらず、只人々の招く所に隨てこそ、此城には籠つたれ、詮ずる所、彼の仰に從て、御方に參らんと存ず、忠次岡崎に參らんに於ては、此城の案內は能く知りぬ、一定攻め破て參らすべし、人々我を恨むべからず、但し忠次がいふ所、惡しと思はん人々は、止めもやし玉ふべきといへば、聞く所尤も理あり、去ながら此城攻め破らんといふ條は、思ひも寄らずと、皆一同にいひければ、何條攻破てくれんものをと、滿坐の輩に、暇乞して、岡崎に參り、頓て御前に召れて城中の事ども尋ね玉ふに、忠次畏て、此城を落しえ給はん事、思ひもよらず、籠る所の兵、年頃御內にして名を得たる士凡八百人、御方に殘り留たる御家人等は、身をも家をも、顧ずと見及ひて候ひつれど、下薦等は皆彼家の門徒なれば、御方より放つ所の鐵炮に、鉛彈みてたるは候はず、されば御敵に手負も死人も多からずと申す、德川殿大に驚かせ玉ひ、さらば汝は如何にや思ふと仰下さる、忠次佐崎の案内は能く存しぬ、一定攻め破て參らせん、酒井左衞門尉が手の軍兵を某が下知に任せらるべうや候、彼一手のものが放つ鐵砲は悉く鉛彈をみてゝ候程に、御敵も畏れ訖んぬと申ければ、忠次が望みに任せらる、忠次大に悅ひ、夜に入て後、城中に忍ひ入り、案內は能く知たり、城中より外に向ひて流れ落る溝に、樋伏せたるが、梯の如くなるを踏て、登る程に、思ふさまに勢とも外城に入れ、第二の城に火を掛けて、既に本城に攻入らんとする所に、本多新三郞、矢倉より、忠次士卒に下知する聲を聞て、大音あげ、戶田殿さきの荒言に合て、勇々しくう候1かな、さらば鉛彈一つ參らせんといひもあへず、忠次が冑の眞向、鐵砲にあてられて、うつ伏にどうと伏す案內者既にかくの如くなれば、酒井が軍兵戰ふに及ばず、忠次を肩にかけて引返す、冑よければ碎けもせず、やゝ有て生き出でぬ、德川殿御感有て、御刀を給ふ、國光の御脇刀其後蜂屋と半之丞親周なり、鎗を合す事凡兩度、土呂の大將馬塲小平太を打つ、三遠記にいづ十二月の事なり、明る永祿七年の六月、吉田の城を攻められし時、高名しぬ、すひがせといふ所にて槍をあはす、同八年三河國大津の村を賜ふ、七百石餘九年十二月、馬武者廿騎附られ、三河の野田村にして、寄騎の給料二千三百石を充行はる、また戶田藤田などいふ侍五人所領賜て忠次に附らる、戶田兵右衛門、同九右衛門、同與五右衛門、藤田彌七郞、同左兵衛等なり、元龜二年七月、遠江國濱名の住人、德川殿に背き、城を去て、武田に組す、忠次本多百助と同く、御使を承り、かしこに行向ふ、此所の士を二つに分て、戶田本多に附らる、忠次が手に屬するもの十四人、忠次また濱名の地を加賜ふ、三百石同き三年十二月三方が原の戰に、御方利を失ふ、忠次德川殿に隨ひ、取て返し〱、戰ふこと度々に及び、濱松の城に到て、菅沼小大膳定利と共に、外郭を守る、天正三年五月長篠の合戰に、忠次が嫡男三郞九郞忠淸生年十七歲、能き敵と組て首を取る、忠次が手の兵、おの〱高名を現はす、同き八月九日、諏訪の原の戰に、三郞九郞忠淸打死す、同八年五月駿河國遠目の御陣に歸り玉ひしを、敵持舟の城より出て、御後を襲はんとす、忠次等返し合て追拂ふ、九年三月、高天神の城落ちし時、忠次が手の兵一方を攻破り、的場郭首七つ切て獻る、十二年尾張の小牧の御陣には、忠次大野の城を守り、小濱民部間宮造酒之丞千賀孫兵衛向井兵庫等も、同しく伊勢の國を鎭めんとて、九鬼右馬允嘉隆と、小濱といふ所に戰ふ、忠次が手の者、先かけして、敵の勢を打破りぬ、十八年の春、相摸國小田原に向ひ玉ふ時、忠次植村庄左衞門と同しく、御陣の先駈して下る、御前備衆なり同き四月二日御勢箱根の山を越んとす、德川殿、忠次を御前に召て、汝後陣に在て、軍勢を下知すべしと仰らる、忠次仰を承て、後陣に候ふ人々、或は當家の大名なり、誰か忠次が下知に隨ふべき、御免あれと辭し申、此ときの御後備は、松平三郞太郞殿、奧平九八郞信昌、高力保科等なり、德川殿汝が申所、理至極せり、さらばこれ執て下知せよとて、執らせ玉ひし御麾を給ふ、忠次三度押戴き、後陣の人々に向て、方々もこれにて仰をや聞かせ玉ふらん、忠次が身、人々の御勢下知せん事、其憚り少からず、但し御代官のしるしとして、是れ賜て候上は、辭し申さんに詞なきか、若し異議を思ひ給はんずる人々は只今御所存を承るべきにて候とて、御麾執て見せければ、人々如何で忠次が下知に背き候べきとて、皆首を地にぞ附けられける、同き廿二日、關東の諸城盡く降らんとす、武藏國江戶の城は、遠山左衞門佐景政が領する所なり、景政小田原の城に在て、舍弟河村兵部大輔を留めて守らしむ、景政が甥同丹波守、眞田隱岐守と共に、德川殿に志を通しければ、忠次仰を承り行向ひ、彼と謀て此城を取る今年關東に移らせ玉ひしかば、此城終に御座所とは成つてけり、此年八月忠次伊豆國下田の地を給ふ、五千石〇一說に、此時甲州郡内の地を給ふべきよし仰けれども、忠次願ふ所にあらずと申、其後伊豆の下田を給ふべき由、望申ければ悅せ玉ひ下し玉ふと、按ずるに關東に移らせ玉ひし後は、甲斐の國は御領にあらず、關白殿の御領となつて、加藤遠江守賜りき、傳ふる所あやまれるが如し、若し甲斐國御手に入し時の事にや、關東に入らせ玉ひし時の事ならんには、外の地なるべし、其後齡既に傾きつれば、致仕し、おのが所領に籠居る、文祿の初め朝鮮の事起て、同き二年三月の比ほひ、德川殿彼國に渡り玉ふべしなど聞えしかば、今年正月、肥前國名護屋に參りぬ、德川殿悅ばせ玉ふ事淺からず、太閤聞召し及ばれ、德川殿の御陣に成らせ玉ひし時、忠次幷に高木主水清秀二人を御前に召て、年來の戰功ども、語り出させ玉ひ、此度の參向を感じ仰下さる、慶長二年六月廿三日、年六十七歲にて、下田の地にて卒けり、土佐守尊次、年廿一歲、天正十二年、小牧の御陣の時父忠次と共に、大野の城にあり、軍終て後、其抽賞として、三河國和地村を下し給ふ、五百石小田原の軍に父と共に向ひ關が原の合戰に、御所の後陣を承る、此年越前國丸岡の城を取て守る事、明る慶長六年の三月に至り、此月累代の本領田原の城を賜ふ、一万石同十二年叙爵す、大坂の軍起し時、初め岡崎の城を守り、其後大坂に馳せ上り、大御所の後陣に候ひける、再ひ兵起しには、三河國東郡の人々、皆常陸介殿の御手に隨て向ひしかば、尊次も同く彼の御手に屬す、此年元和元年七月、京都にして卒す、年五十一歲、其嫡男因幡守忠能生年十五歲、慶長五年の秋、父と共に海道の御供して、關が原に馳せ向ひ、大坂兩度の軍には、將軍家の御手に隨ひけり、年積て六十二歲、正保四年正月三日にぞ卒しける、忠能男子なかりしかば、舍弟三郞左衞門忠繼が嫡男を以て嗣とす、伊賀守忠昌、伯父忠能が嗣となつて、寛文四年五月十一日、肥後國天草郡富岡の城を給て移る、二万千石同き十一年正月廿五日、寺社奉行を掌り、御奏者の事を兼ぬ、延寶四年四月三日京都所司代の職に補せられ、所領加賜り、一万石越前守に成る、
- 勇々しくう候 — 底本のまま(通常は う)。「勇々しう候」の底本誤植とみられる