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稻葉
この家によく出る人物・地名
人物 稲葉良通 21徳川家康 16織田信長 15稲葉貞通 11豊臣秀吉 5稲葉通富 3稲葉通則 3森長可 3遠藤慶隆 3稲葉典通 3斎藤龍興 2金森可重 2河野通信 1河野通直(弾正少弼) 1朝倉義景 1浅井長政 1池田恒興 1井伊直政 1本多忠勝 1稲葉一通 1稲葉信通 1稲葉景通 1
地名 関東 3美濃国 2近江国 2北陸道 2尾張国犬山 2美濃郡上城 2摂津国大坂 2尾張犬山城 2伊予国 1安芸安国寺 1美濃国稲葉山 1美濃国牧田 1美濃国長良 1美濃崇福寺 1近江国守山 1近江国姉川 1尾張国羽黒 1三河国 1遠江国 1尾張国長久手 1尾張国楽田 1尾張龍泉寺 1尾張小幡城 1美濃曽根城 1
其子備中守通則、六人の男子あり、當國牧田の戰に、通則并に子息五人、同じ枕に討れ死す、第六の男を出家させんとて、長良の寺に崇福寺と云ふ遣して、年八歲より十七八まで喝食にてありけるを、通則が妻呼ひ迎て、家子郞等を深く賴み、父が跡つがせ終に敵を討ち亡す、頓て髻あけさせ男になす、伊豫守貞通是なりけり、武勇の譽れ當國に隱れなく、西方の三人と名を呼ばる、初め當國の守護齋藤に隨ふ、永祿七年の頃右衞門督龍興に中違して、織田上總介殿に從ふ、此年八月龍興が家亡ひぬ、元龜元年五月信長上洛あり近江路の警固として、貞通が父子三人、守山の宿に止めらる、案の如く當國の凶徒等蜂起して、織田殿の歸路を遮らんとす、貞通父子馳せ向ひ、散々に討ち破て首一千二百斬て參らす、信長の御感斜ならず、同六月信長近江國に發向し、朝倉淺井と戰ひ給ふべしと聞ゆ、德川殿此告を聞召し、御勢僅に三千人、信長助けて馳せ上らせ給ひしに、軍既に明日に極る、德川殿明日戰を合せられん今宵、參り合せしこそ幸ひなれ、何の方にも强からん方をば、家康承るべしとぞ仰せらる、信長去れば軍の期既に近きに因て、かねて味方の兵勢配り定め訖んぬ、唯明日の戰に、味方弱からん方を、御勢して助け給はるべうもや候とありしに、家康齡三十にも越えたらんには、迚も斯ても候ひなん、若からん者の、助け參らせんが爲に、遙々爰に馳せ來て、打込の軍せんこと、長き弓矢の瑕瑾たり、若し望む所叶はざらんには、此夜速に本國に引き返へさんには若くべからずと仰せ切らる、信長承りぬ、さらば北國の敵に向はせ給ふべくや候、又誰をか御勢に加へ參らすべきにて候と宣ふ、德川殿聞召し、家康が國小にして、僅かなる勢を遣ひ習て侍れば、大勢を下知せんこと、合期し難るべし、又心をも知らざらん人々に相語はんもむづかし、朝倉何十万騎候ふとも、唯家康が勢にて軍し、見參にこそ入るべけれと仰せけれは、信長重て仰せ又承りぬ、去ながら北國の多勢を、御勢にのみ任せたらんには、信長また天下の嘲を免るべからず、いかで信長が勢をば賴せ給ふべき、只同じくは僅かなりとも、信長が兵を、召し倶せられんには、此上の御情にてこそあるべけれと宣へば、去らば稻葉伊豫守をや、賜はるべきと望み給ひしかば、貞通が一生の名譽にて、羨まぬ人ぞ無りける、明れば六月廿八日、德川殿姉川を隔て、義景が勢に向ひ給ふ、貞通が勢、僅か千人には過きず、德川殿の仰を承て、後陣にこそは扣へたれ、信長の多勢、長政が爲に驅り立られ、既に負色になりしに、淺倉が三万騎、德川殿に寄せ合て散々に討ちなされて、淺井が軍も敗れけり斯て織田殿貞通が武勇を感し給ひ、自らの名の字賜て、長通と召さる、貞通これを喜ばず、己が名をば子息右京亮に名乘らせ、頓て入道して一鐵とぞ申しける、
天正十年の夏、織田殿失せ給ひし後は、秀吉に與みす、同き十二年三月森武藏守長一、德川殿の先陣に羽黑の陣を打破らる、此時長一が舅池田信輝入道を先として、美濃國の人々、犬山の邊に陣を取る、武藏守が陣敗れ敵既に近きぬと云ふ程に、味方以の外に周章す、一鐵入道これを見て、三河遠江の者共が、軍せん樣いか程の事やあるべき、いでゝゝ此老武者が眞先懸て打ち破り、若殿原の見參にこそ入るべけれと、云ふ儘に已が鎗の石突とつて、二つ三つ打振り〱、老の川に血の波たゞへん者をと自讃して、から〱と笑ひければ、人々一度に瞳と笑ひ、各色をぞ直したる、德川殿の先陣も逃けゆく敵を追ひ捨て、犬山の方に向ひ、悅の鬨を三度作て、靜かに引て歸りしかば、入道も人々を勸て同しく引て歸りけり、同き四月長湫の戰ひ、味方又悉く討ち破られぬと聞えて、秀吉樂田の陣を立て、龍泉寺の邊りに馳せ來り、德川殿既に小幡の方に入らせ給ふと聞て、安からぬ事共かな、何國までも追詰てこそ戰はめと、軍勢を進めらる、一鐵入道固く秀吉を止め參らせ、日既に暮れんとす、明日こそ勝負をば决せらるべう候へと申ければ、去らばとて此所に陣をぞ召されける、明れば十三年の七月、秀吉關白に任し給ひし時嫡男右京亮貞通、侍從になされ、曾根の城にありしかば、曾根の侍從と申し、其後同國郡上の城を賜て移り、郡上の侍從と申しけり、四万石を領す入道も三位法印になされ、年積て七十四、天正十六年十一月十九日に卒したり、一鐵入道三位法印になされしこと或記の記す所に隨ふ右京亮貞通、太閤薨し給ひし後、慶長五年の秋、大坂の奉行等が催促に隨ひ、我身は犬山の城を守りしが、德川殿に心を通し、東國の先陣、尾張の國に至ると聞て、井伊本多が許に使立て、貞通御方に參るべき由を申す、斯る所に八月廿日東國の先陣岐阜に向し二日前の事也東國の御方として、遠藤但馬守金森出雲守等の人々、己が郡上の城攻むと聞て、嫡子彥六郞典通と共に、其夜犬山の城を去て、鞭鐙を合せて馳せ歸り、遠藤が陣に押寄せ、散々に打破り、其後寄手の陣に使者を立て、貞通かねて德川殿の御方に參るべき由を申しぬ、和君達は未だ知し召されねばこそ、我城をば攻め給ふらめ、今は互に人質を取替して、戰をば止め候ひなん、去ながら猶も戰の勝負をば决せらるべうもや候ふと云せたり、遠藤も金森も、既に御方に參り給ひし事、未だ承らず、去らばなど同士軍には及ぶべきと、和睦してこそ歸りけれ、德川殿此由を聞召し、貞通既に御方に參ると云ふとも、己が城攻め取られたらんは、言甲斐なかるべし、此度の振舞、神妙の至りなり、去ながら郡上の郡は、遠藤が累代傳領の地なるに依て、下し賜ふべき由、既に仰せ下されて事訖んぬ、貞通には別に所領を賜ふべき者也とて豐後國臼杵の城に、加恩の地を添て下し賜りぬ、五千石加へられて五万石餘を領す、貞通が卒せし年月未た聞かず嫡子侍從典通、初め彥六郞と申す武勇の名譽、又父祖に劣らず、家繼ぎし後、從四位下侍從になされ、大坂の兵起りし時、馳せ向て城を攻む、重て兵起りしには筑紫の人々は參るに及はず、寬永三年十一月十九日、六十一歲にて卒す、其子民部少輔一通、家を繼き寛永十八年八月十六日、五十五歲にて卒す、其子能登守信通、寛文十三年六月廿四日卒す歲六十六、其子右京亮景通、承應二年十二月廿八日叙爵し、父卒して後、家を繼く、