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平岩

第十一 · 段落 3 · 780525 55コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

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地名 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

主計頭弓削親吉は德川殿普第の御家人なり、初め德川殿御幼稚の昔、今川殿へ參らせ給ひし時、親吉も童にて七之助と申す御供に侍ひ、德川殿と共に尾張國に止められ、其後本國に歸らせ給ひ、重ねて駿河の國府に入らせ給ひしにも、御供に侍ふ、年比物うき御栖居の中に同じやうに人となり參らせ、弘治二年の春御年十五にして御軍初ありしかば、親吉も生年十七歲、始て戰ひに臨みしより、常に御陣に從ひて、向ふ所破らずと云ふ事なし、勇材武略の逞しき計りにもあらず、其心仁愛あつて、いみじき寬厚の長者なりしかば、三郞殿御成人の後、岡崎の城に入らせ給ひし時、彼の御傳になされ、常には家の事執行ひ、軍には御介副にぞ候ひける、されば三郞殿御年若く渡らせ給ひ、弓矢の御名、海道に顯れ給ひし事、しかしながら親吉が功莫大なりとぞ聞えたる、天正七年の秋三郞殿の御舅織田殿、酒井左衞門尉忠次を召され、三郞殿御謀反の聞えあり、事いまだならざるに及で、速に誅せらるべき所なりとぞ宣ひ遣はさる、親吉此由を聞て大に驚き、急き德川殿に參り、岡崎殿御謀反の聞え有て失はれ給ふべしと承る、父子の御中、何の御恨かありて、今かゝる御結搆や候べき、これは偏に讒者の訴ふる所と存ず、君もし其實否を糺されざらんには、御後悔遠きに出づべからず、詮ずるところ、親吉年來御傅として彼殿に附けられ給ひし上は、罪親吉一人が身の上に歸せられ、速に首を召して信長へ參らせられんには、信長しばしは宣ひ出さるゝ旨も有る可らず、かの御身に於ては、誠に御咎ましまさねば、とかく程へん其中には、仰せ開るゝ迄もなく、信長の疑もなど解けやらでは候べき、とく〱親吉が首を召さるべう候と申す、德川殿此由を聞召され、信康が謀反の聞え誠とも覺えず、去ながら我いま亂れたる世に當りて、大國の中に差夾まれ、賴む所はたゞ信長の助くる所なり、今日彼の助を失はんには、我家亡びん事、明日を出つべからず、されば我れ父子の恩愛の捨て難きに、累代の家亡さんは、これ子の憐みを知て、父祖の御事思ひ參らせぬに似たり、我この事思はざらんには、など罪なき子失つて、つれなく身を立てんとは思ふべき、又汝が命乞ひ取て信康が首つがせん事の叶ひなば、汝が申す所さもありなん、信康迚も遁るまじきもの故に、汝まで失うて家康が耻ち再び重ねんこと口惜かるべし、汝が深き志は何れの世にか忘るべきと、御淚に咽び仰せければ、親吉かさねて申出す詞もなく、聲も惜まず泣き居たり、扨あるべきにあらざれば、三郞殿岡崎の城を出され給ひ、大濱に移され堀江の城に入て、また二俣の城に至り給ひ、爰にて御腹めさるべきにて、天方山城守服部半藏御使に參り向ひ、同年九月十五日御年廿二歲にて失せ給ひしを、當家も他家も押なへて、惜み參らせぬ者ぞなかりける、大久保が三河物語に載する所は、三郞殿御夫婦の中睦じくわたらせ給はざりしにや北の方、三郞殿の御過り十二箇條をしるし給ひ、酒井左衞門尉忠次して信長へ參らせらる、信長これを御覽じて忠次を召され、始より一條づゝ自ら讀み給ひ、忠次此事や知りぬると問ひ給ふに、存じぬと答ふ、かくの如くに答ふる事、第十條に至りて後、信長この上は力なし速に失はるべしと宣ひき、忠次存ぜざる由を申きらば、いかでかくは成らせ給ふべき、德川殿も深く忠次を恨みさせ給ひしと云々、其餘は本文の如し、或記に曰く德川殿の北方築山殿と申せしは、極て嫉妬深くましませしに因て、御間快からず、築山殿密かに武田四郞と謀を合せ、德川殿失ひ三郞殿世に立てんとし給ひ、勝賴の許より來れる文を、三郞殿へ參らせらる、三郞殿は御狩に出で給へば、御留守に在りし人、押板の上に差置きしを、三郞殿の北方密かに御覽じ、驚き給ひて其文を取りて、御父信長へまゐらせらる、信長この由を德川殿へ仰せられしに因て、築山殿失はれ給ひ、三郞殿も御腹召されしなり、三郞殿は此事夢にも知召されず、御最期に及て、天方服部御介錯のために參りしに向ひ給ひ、信康不孝の罪なくんば、いかでかゝる身とはなるべき、去ながら謀反の由を承るこそ、死しても恨は殘るべけれと、仰せられて宗徒の御家人等に、一々に御言傳仰せ置れ、御腹を召されしとなり、按ずるに此時築山殿も失はれ給ひしかば、後の說も似たる事もあるべしや、されど女にてましますとも、かゝる恐ろしき謀し給はんからに、かく一大事の文を、しどけなく三郞殿へ、まゐらせらるべき事とも思はれず、若し此事まことならんには、德川殿御父子の間に不快出來りて、國內亂れん、外には又德川織田の間に事起らんやうを、勝賴の謀らはれたるなるべし、然らざらんには又此謀たくみ出たせし人あるべし、この殿は御年若かりしかど、弓矢の道は御父にも優らせ給ふべしなど、世にも云ひ傳へしかば、御舅信長も、うるさき人に思ひ給ひし故、德川殿すゝめて失はせ給ひしなども申傳ふるなり、德川殿も速に三郞殿失ひ參らせられず、是處彼處に遷させ給ひしも深き御心ありと見えき、寔か此後に滿仲の舞を舞ひ給ひし時、天方召されて、これ承れと仰せられしとも申なり、又大賀彌四郞が讒に依て、御父子御中平かならざりし事を、後に悔ませ給ひし由は、御遺訓といふ書にも見えたるなり、
かくて親吉つれなき命ながらへて、程なく武田亡び織田殿も討たれ給ひ、甲斐信濃の國々御手に屬しければ、親吉を甲斐の國の目代になされて、常に彼國に在り、前亡の餘り國人等が心定らず、外には敵國其隙を伺ひしに、親吉公平の政を施しけるほどに、動きなく國治る、同き十三年眞田が城を攻めて味方利を失ひしにも、親吉が一勢、追ひ來る敵うち破りて引き返す、十六年の夏、德川殿御上洛ありし時、親吉御供に候ひて、主計頭從五位下になされ、十八年北條の滅びし時、宗徒の人々と武藏の岩槻の城を攻め降し、親吉又築井の城を降す、此年關東に徒らせ給ひしかば、上野國厩橋の城を賜る、三万石親吉男子なかりしに因て、德川殿第八の御男仙千代丸殿を賜ひて世嗣とす、御歲纔かに七歲にて慶長七年二月七日1に世を早うし給ひぬ、五年の秋東西の軍一時に起りしには、親吉己が城にありて、東國の軍務を司れり、同き八年十二月、五郞太丸殿甲斐の國を賜はらせ給ひし時、親吉この殿につけられて、府中の城を賜る、六万石を領し、親吉始て城を築く十二年四月右兵衞督殿則五郞太丸殿尾張國に移され給ひしかば、大御所の仰を承りて親吉清洲の城に在り、自らは犬山の城賜て領す、十万石十五年の夏より名護屋の城築かれて、清洲の城を遷さる、十六年十二月晦日親吉七十歲にして卒す、子なかりしかば家絕えぬ、
  1. — 底本のまま。松平仙千代(家康8男)の没年は通説では慶長5年 2月 7日。直後の「五年の秋」の記事より前に置かれた叙述順とも合わない
一說に十月晦日に卒すと、覺束なし、創業記慶長十七年正月四日の記に、去る元日に親吉名護屋第二の城に卒す、今日そのよし駿河に至て告げ來る、大御所此よし聞召され、親吉が病重らんには、など犬山に歸りては死せざらんとて、御氣色宜からずと云々、これ清洲の城を名護屋に移されて、右兵衞督殿いまだ御わたまし無かりし內なればなり、然るに考異には十五年十二月晦日の由のせられたり、政事錄には此事見えず、