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松平(戶田二連木)

第四下 · 단락 7 · 780521 41코마 L부터

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지명 8 5 5 5 5 4 4 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

その家の傳ふる所は、三條庶流の藤氏といふ、親元日記を按するに、寬正六年四月十七日の記に、宗光都に上りて、伊勢兵庫助に對面の儀あり、曰く三河國の御被官十田彈正左衞門宗光と云々、五月廿六日の記に蜷川掃部介淳親が知行三河國の大平の御代官の事、十田に契約せしのよしを載せ、七月廿九日の記に、御被官三河國十田彈正左衞門、八朔の禮儀として、伊勢守父子に太刀を送れるよしを載す、然れば、戶田もとは十田と云、十田又伊勢伊勢守貞親が被官たり、此年三河の守護細川讃岐守が家人等、主に叛き、國中所々に隱れ住む、松平和泉入道十田彈正左衛門宗光をして、追捕すべきのよし、伊勢守幷に眞雄親元等が奉書案を載せ、其下にも、十田は御被官たりと注せり、松平和泉入道といふは、德川殿の御先祖信光の御事なり、これを以て見る時は、松平十田當時三河國の両目代にて、當國の事、二人の沙汰に出しと見えたり、〇又按ずるに、明應元年より逆しまに、寛正六年に至て二十八年なり、宗光明應に田原を築き、其後また二連木を築き移りしといふ事は如何あるべき、宗光もしは長壽なりしや、田原をきづきしは、明應よりなほ前の事にあらずや、
其男彈正忠憲光、田原にあり、同國今橋今の吉田の住人牧野入道古柏と互ひに地を爭ふ、今川治部大輔氏親義元の父なり戶田を助く、永正三年七月、駿河國を立つて、同き八月廿六日今橋の城に押寄せ、攻め戰ふこと六十餘日、牧野終に打負けて、腹切て死す、氏親今橋の城を以て、憲光に附けらる、憲光田原二連木今橋等の城を幷せ領す、憲光が嫡男右近尉政光、二連木にあり、二男金七、今橋に在り、此事創業記に出づ牧野入道が嫡男傳藏、成人の後、再ひ今橋の城を攻取る、亨祿二年1五月廿八日、安祥二郞三郞殿と戰て、淸康今十九歲の御時牧野兄弟討れし後、天文十年に至て、戶田再ひ今橋を襲ひ取る、同き十五年、終に今川のために攻め取られぬ、政光が嫡子彈正少弼康光、田原の城に、在り、
  1. — 지면 그대로. 연호 「享祿」의 저본 오식 가능성
初め岡崎贈大納言家、水野殿の娘を迎へ玉ひ、德川殿をや設けさせ玉ひしかど、右衞門大夫どの失せ玉ひ、嫡子下野守、今川に背きて、織田備後守信秀に組みせられしかば、岡崎殿北の方をば下野守方へ送り返し玉ひ、戶田彈正少弼の娘を迎へ玉ふ、されども岡崎の本城は、わか君しらせ玉ふべき所なればとて、新城に迎入れ玉はんとありしに因て、事既に破れぬべかりしかど、終には新城にむかへ玉ひ、戶田が不快是等の事より起りしにや、いく程なくして、岡崎殿、今川の加勢乞て織田と軍せんとて、若君を駿河國へまゐらせ玉ふを、戶田織田と心を合て、道にて若君を取り參らせて、尾張國に送り參らすと云云、此德川殿を取參らせし戶田、諸說まち〱なり、大久保三河物語伊東法師三河記には彈正少弼殿と記るせり、創業記には彈正少弼男孫四郞が所爲と載す、然るを紀伊殿の考異には、一說に彈正と記し玉へり、家忠日記增補には戶田五郞とあり、三遠記と云ふ書には彈正の子五郞兵衛とりまゐらす、此人は宗光の子憲光が弟、後には庄左衞門といひし人なりと註せり、太田山中が德川記といふには、政光としるす、〇按するに戶田の家代々彈正と云ひしなり、彈正左衞門尉宗光、寛正六年に上洛せし事、親元日記に見えたり、其子彈正憲光、其子左近尉政光、是より田原二連木兩家の戶田分れたり、田原は彈正少弼康光なり、二連木は主殿助光成なり、宗光上洛せし寬正六年より、德川殿とられ給ひし天文十六年に至て、凡八十三年、宗光が上洛の時、たとへ十六歲なりとも、既に百年に及へり、宗光が子とり參らせしといふ事はなき事なり、大抵廿年を以て一世として見る時は、德川殿を取參らせしば、彈正少弼康光が時にあたるへし、殊に少弼といひしは、康光が事なり、かゝれば大久保伊東が記創業記の考異等の實記に合ふか、此事の始末を詳かにしるすこと伊束が記1に若くはなし、少弼康光たる事疑ふ可らざるに似たり、政光といふ說は珍しく、また遠からぬにや、左近尉政光は、康光が父と見えき、されど政光を彈正といひし事は見えず、また德川殿を取り參らせしは、彈正と見えし書は、多けれとも、左近尉とは無し、但し左近尉、家を繼きし後より、彈正少弼といひしも知らず、庄左衞門は康光の弟にて家を繼ぎしといひ傳へしなり、此人即ち田原の戶田の祖なり、
  1. — 지면 그대로. 「伊東が記」의 저본 오식으로 보임(앞 열 「伊東が記」의 東과 자형이 다름)
其子丹波守、後に戶田入道全香と名のつて、二連木にあり、名系圖にも見えず、其子主殿助名系圖には見えず或說に光成といふ、主殿助男子なかりしかば、其弟彈正が系圖には、此彈正則ち主殿助が事たるよしに見ゆ、初は甚平といふ、法名は常慶と云云、されども主殿助が弟たるよし、諸說みな同し、精しくは下に注し訖んぬ、男を以て嗣とす、是れ丹波守康長なり初め丹波守、二連木の城に在て、今川に屬す、氏眞の家亡びんとして、日々に國人等が心も計り難くなりし程に、永祿七年に至て、小原肥前守をして吉田の城を守らせ、吉田は昔の今橋なり、當國の人質を納らる、丹波守も質として、我母を參らす、されど德川殿に心寄せしに依て、此年五月十三日、母をぬすみ出して、德川殿にまゐらせければ、御感斜ならず、終に御家號を給て松平と名乘る、
德川殿に從ひし戶田、また諸說まち〱なり、大久保が物語に、戶田因幡守が母をぬすみたるありさまを精しく載せ、此賞に御家號賜て、其後、松平因幡守といひしとあり、創業記考異には二連木の戶田丹波守、後に松平氏を賜ふと載せ玉へり、御年譜また是に同し、御年譜考異に因れば、丹波守といふこと治定か、大久保が記には、因幡とあり、伊東法師が記にも、戶田因幡守と見えたり、思ふに丹波因幡草書の文字、似たるゆゑに、書寫の誤れるにあらずや、系圖にも、因幡守は見えず、此說の如きは丹波守戶田入道が事が時、德川殿に從ひ、また御家號をも許されしなり、三遠記に曰く、戶田主殿助に御家號を許し玉ひし後に、主殿助死して、子なければ、弟の彈正が子を養て、是を丹波守とす、御諱字下されて康長と申せしと云々、家忠日記增補にも、主殿助初て德川殿に從ひし由を載せたり、此等の說の如きは、丹波守が子主殿助、德川殿に從ひ、御家號、許されしなり、又三遠記の如くなれば、後の丹波守康長が父の彈正は、主殿助が舍弟なり、〇上の兩說を合せ按ずるに、丹波守主殿助父子一同に、德川殿に從ひ參らせしなるべし、御年譜に、此年永祿七年二月の下に、戶田丹波守二連木の城をゐて服し奉り、二連木口の塞を守りて、今川と戰ふと云々、同き五月十三日戶田主殿助に地を加へ玉ふ、吉田の戰に功あるを賞せらるゝ所なりと云々、これ父子一同に、御方に參りし證にあらずや、或は丹波守と記し、或は主殿助としるすと雖ども、共にこれ一時の事なり、但し母を竊み出せしは主殿助たる事治定にや、主殿助が父丹波守は、彈正少弼康光が嫡男なれば、その母永祿七年の比まで世に永ふべしとも思はれず、また御家號許されし事も、其家の系圖を見れば、丹波守康長が時に賜ひし樣に見ゆるなり、不審、○又按ずるに家忠日記增補に、永祿七年五月十三日、戶田主殿助、母をぬすみ出し、二連木に在て吉田の城に兵を發して、終に小原と戰ひ死すとあり、如何なる據り所あるにや、御年譜と大に異なり、また同記天正九年の下に、戶田孫六郞康長、十六歲と載せたり、是則ち丹波守康長が事なり、康長天文1九年に十六歲なる時は、養父主殿助が戰死したりし後、一年を歷て、永祿九年に生れしなり、如何で康長生れざる前より、世嗣と定る事あらんや、其外の書に、主殿助小原と戰死せし事、いまだ見ず、三遠記に、主殿助の御方に參りし年に、本多彥八郞忠次が、伊奈より岡崎へ返るとて、吉田を攻むべき謀事を思ひよりて、先陣を望みしかば、戶田主殿助をもそへて向はしめられしと記せり、これ則御年譜に見えし主殿助が吉田の戰に功ありしといふときの事なるべし、
  1. — 지면 그대로. 바로 앞 「天正九年の下に…十六歲」와 뒤 「永祿九年に生れし」 계산으로 보아 「天正九年」의 저본 오기
主殿助死して康長繼ぐ、童名虎千代丸天正九年三月、高天神の城を攻めらる、康長いまだ孫六郞と申て、生年十六歲、御方の人々攻あぐんだるを見て、的塲郭といひし所なり德川殿に參り、康長御許を蒙らば、攻破て參らすべしと望み、御許を蒙て、手の兵に下知し、眞先に進み、火を放て攻入るほどに、忽に攻め破りぬ、武家補任を案ずるに康長寬永九年十一月十一日に卒、年六十一歲と注す、然れば天正九年には十一歲の時なり、天正九年に十六歲といふ事は、家忠日記の說なり、日記によれば卒る時に六十八歲成べし、一と八と草書誤れるにや、是を高名の初めとして、所々の戰功數を知らず、成人の後、德川殿の異父同母の御妹を賜て妻とせり久松佐渡守俊勝第三の娘なり關東に移り玉ひし時、武藏の國東方の地を領す、一万石關が原合戰の時、先陣に加て軍し、曾根の要害を守り、大柿の城を落す、慶長七年下總國古河の城を賜て移る、二万石同き十四年七月より、同十六年の七月に至て、伏見の城を守る、其守り怠らざりし賞として、下野國皆川の地を分ち賜ふ創業記に出づ、如何程給ひしを知らず明る十七年六月、常陸國の笠間の城に移る、三万石大坂の兵起しに、將軍家の先陣たり、再起りし時、大御所の御陣に隨て軍す、首十四切て獻る、元和三年信濃國松本の城に移る、五万石一說に七万石寛永三年八月十九日、從四位下にのぼり、同き九年十二月十二日卒す、卒年の事は前の註に見ゆ、其子加賀守忠光早世しければ、二男佐渡守康直、家を繼ぐ明れば寬永十年、播摩の國明石の城に移り、六万石、一說に本領の儘七万石といふ、頓て丹波守になさる、康直男子なければ、舍兄加賀守忠光の男孫四郞光重して、其跡を繼がせられ、叙爵して丹波守に任ず、同き十六年十一月美濃國加納の城に移る、七万石明曆二年大坂の城守るべき由を奉て、彼處に留り守る事万治元年に至る、權御城代と申せしなり、又再び守る事、万治三年より寛文元年に至れり、年四十七歲にて寛文八年七月晦日に卒す、嫡男長門守光永父に繼ぎ、丹波守に成る、