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上總介殿

第十一 · 단락 10 · 780525 43코마 R부터

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지명 19 5 4 4 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

長澤殿は松平源七郞康忠の御事、これ德川殿と同じ流にして岩津殿の御すゑ德川殿の御妹婿なり、世に傳ふるは介殿生れ給ひし時、德川殿御覧じけるに色きはめて黑く、皆さかさまに裂けて恐しげなれば、憎ませ給ひて捨てよと仰あり、皆川山城守廣照とりて養ひ參らせ、辰千代殿と名づけまゐらす、七歲にならせ給ふ時、此御子さが〱しくまします事共聞召され、いかにや生ひたちぬらんとて召さる、つく〱と御覽し、おそろしき面魂かな、三郞が幼かりし時に、違ふ所なかりけりと仰せけり、文祿二年の冬長澤殿うせ給ひてのち、山城守廣照かの家のおとなと相謀り辰千代殿してかの家つがせんと望みしかば、御許しありといふなり、
慶長七年の春下總國佐倉の城を賜らせ給ひ、上總介忠輝と名のり給ふ、明れば八年二月六日信濃國川中嶋に移り給ひ、元四万石此時十八万石同き十年四月十六日四位の少將になされ、十一年十二月伊達政宗が娘を迎へ給ひぬ、こゝに皆川山城守廣照は、昔介殿を取りて養ひ參らせし者なりければ、彼家につけられて信濃の國飯山の城を賜ふ、四万石を領す皆川が傳は別に見えたり介殿御年さかりにならせ給ふほど、あら〱しき御振舞のみ多くして、國中の上下、悉くに歎き苦しむ、古き者共とかく諫め參らすれども、用ゐ給はず廣照深くこれを歎きて、さま〱に敎訓し奉れども、今はおのれらが力にて、御行跡改らせ給ふべしとも覺えず、慶長十四年九月廣照、山田長門守松平讃岐守と打連れて駿河の國府に參て、此由を愁ひ訴ふ、介殿關東にてかくと聞召し、夜を日に繼きて大御所へ馳せ參らせ給ひ、山城守おのが舊功を恃みて、やゝもすれば恣なる振舞を顯はす、山田等また彼が與黨たる由を訴へ給ひしかば、三人共に罪かうふりて召いましめらる、廣照は舊功の者なりとて、罪宥められて流刑に處せられ、殘る二人は同十月二十七日に誅せらる、
世に傳ふる所は初め大御所の召仕れし小童に、花井三九郞と云ふもの亂舞堪能の者なりければ、介殿いとけなくまします時、この事敎へ申せとて參らせらる、やがて於茶阿の御方が、昔まうけし娘にあはせけり、介殿の異父同母の御姉聟なりければ、双なき御覺えにて遠江守に受領し、家の事司どる介殿かれが申さん程の事は、如何なる事をも用ゐ給はずと云ふ事なし、宗徒の御家人等は、あるにもあらず、善からぬ御振舞のみ多く、國中の上下歎き苦しみければ、皆川山田等此由を訴ふ、大御所聞召されて、甚た驚かせ給ひ、その三九郞男には小皷うたひなど敎へよとこそ云ひたれ、誰が許しければ、かく受領して家の事とり行ふらん、不思議さよ、速に召すべし屹と糺問あるべしと、以ての外に御氣色損したり、於茶阿の御方、大に驚き歎きて右兵衞殿常陸殿の御母上を初め、御歸依の僧達に至るまで、深く賴みて花井が罪まぬかれん事を歎き申し、又介殿へも、かくと告け申されしかば、國府に馳せ參らせ給ひて、如何に仰せ拔かれけん、花井は罪まぬかれ、三人は罪かうふりしとなり
明れば十五年閏二月三日越後國を賜り、六十万石頸城の郡高田の城1に徙り給ふ、今は諫め止め參らせん者もあらず、御心のまゝに酒宴遊興にのみ明かし暮らし給ふほどに、兩御所に參り給ふ事もなかりしかば、大御所の御氣色よろしからず、此由を聞召し驚き給ひ、十七年の九月駿河に參り給ひ、それより關東に下向まします、ことし十二月廿三日松平大隅守重勝に三條の城を給ひて介殿につけらる、十九年の冬大坂の軍起る介殿は關東に留り守り給ひ、元和元年の夏重ねて軍起りしかば、介殿は村上溝口等に先陣うたせて、北陸道より打て上らせ給ふほどに、近江國守山の宿にして武者二騎、若黨十二三人つゝ引具して介殿の御勢に押並びて打て行く、御先を打ちし人々、なに者なれば乘打ち仕るぞ、馬より取て引きおろせと罵る、二人馳せぬけんとする所を、御先の人々追つかく、二人馬のり棄てゝ道のほとりの家に逃れ入る、平井三郞兵衞安西右馬允追詰めて組て伏せ刺殺してぞ捨てゝける、さても介殿初より大和路の大將軍承らせ給へども、五月六日道明寺の戰爭終て後着かせ給ひ、明れば七日の合戰にも合はせ給はねば、然るべき首一つも參らせられず、兩御所の御氣色宜からず同八月の初め大御所都を立たせ給ひ、水口に至らせ給ひし時、介殿將軍の御家人誅せられぬと聞召され、其邊りの者共、御推問ありしに事實なりしかば、同廿四日駿河の國府に着かせ給ひ、松平忠左衞門尉勝隆を御使として、此後永く御對面の事叶ふべからざる旨を仰せ遣さる、同九月十日勝隆馳せ歸り、介殿陳し申させ給ふやうを聞召して、御氣色いよゝゝ宜からず、
  1. — 지면 그대로. 慶長15年 松平忠輝 越後 입봉 때 거성은 福島城이고, 高田城 축성·이전은 慶長19年이다
世に傅ふる所は是よりさき、七月將軍家關東に下らせ給ふ時、駿河の國田中に至らせ給ふ折、長坂血鑓が訴へ1申すに因て、彼れが弟十左衞門並に伊丹彌藏二人が介殿のために誅せられぬること始て知召され、八月六日關東に着かせ給ひ、同十日に介殿の家人召して長坂伊丹誅せられし事を御糺問ありしに、介殿守山の宿を過きさせ給ふほど馬武者二騎若黨十四五人つゝ具して、すぐ御さきを走る者共、上總介殿の通らせ給ふに何者なれば狼籍なりと咎めしに、我等二人の主になきものを、何條下馬に及ぶべきとて、打過くるを追かく、二人馬のり棄てゝ道の邊りの家に逃け入る、是故に其儘に打捨て介殿通らせ給ふ、二人待ちかけて、太刀ぬき連て切て出づ、御供の輩我も々々と打物の鞘をはづして駈け向ふ、二人また引返して逃ぐるを追かけて鬪ふ、されば初より御家人とも存ぜざるによつて、終に討ち留め訖んぬと陳じ申す、此由を聞召し、長坂伊丹既に死したり汝等陳じ申す所、證となし難し、且つ初め事の急なるに臨みては、誰某と知らずとも、事既に終りて後、など御家人とは知らざらん、それに少將が此旨を申さゞる事、尤も驕恣の至なりと仰ありしかば、介殿大に恐れ給ひ、さらば平井安西を召搦め長坂伊丹が一族に渡さるべしと議せらる二人聞て深く恨み參らせ忽に逐電しぬ安西猶も恨みに堪えかねて、關東に忍ひ下りて一封の書を獻る、これ大坂の戰に怠らせ給ひし事の由を告げ申せし所とも申すなり、介殿のきり人花井主水遠江守が子なり關東に召され安西と召决せらる、花井また大御所に召されて駿河に參り、介殿大坂の戰に合はせ給はざる由を御推問ありて、尙尋ねらるべき事ありとて召いましめられ、松平忠左衞門尉を御使として、介殿へ仰せられしは、去りしころ關東の御家人二人、恣に誅せられ其事を申し謝せられず、我今永らへて世にあるにだに、かく將軍家に向ひ無禮を顯さる、我なからん跡の事思ひやられぬ、且此度都にありし時、我れ將軍家と共に内に參りしに、忠輝病と稱して供奉に候せず、川道遙のため嵯峨の邊に出で、日をくらし又暇をば賜らざるに、都を立て間路を經て直に國に歸り、國家の大法、我が子初にこれを破る此等の罪、輕からず、先つ早く將軍の御家人討ちし輩を召取つて、關東に參らせらるべき者かとありけるに、介殿聞召して長坂伊丹を殺せし事、步行侍凡三百餘人が中に取込めて討ち留む、何れをさして下手人と定め難きか、又御不審の條條、身に誤りなきに似たりと、一々に言葉を飾て陳じ申し給ひし程に、大御所の御怒り殊に甚しく、介殿の步侍の頭山田將監富永大學、此由を聞て、すべからく早く我等二人を以て、かの下手人として御不審を申披らかせ給ふべき由を訴ふ、三百餘人の步侍、又是を聞て此事我々が手より事起る、何ぞ罪なき二人の人々を失ふべきと僉議して、下手人たらん事を望むもの三人、さらば是等を關東へ參らせよとて、小澤水右衞門松岡淸右衛門を御使に差遣さる、小澤かの三人を搦めて渡さるべしと申す、松岡聞て三人旣に下手人たらん事を望む、いかで死を逃れんとは思ふべき、只よのつねの如く刀を帶させて給るべしといふ、小澤又彼等が逃け奔るべからざらんこと勿論なり、將軍家へ參らせられん下手人を、搦めで參らせ給はん事、頗る緩怠に似て、君の御爲しかるべからずといふ、小澤松岡此事を相論して日を移す、かの步侍三人が內一人、洞庵といふ寺に走せ入て、此度長坂伊丹等を討ちしには侍らず、身不肖には候へども、君の御爲に死を顧みず、下手人たらん事を望み畢んぬ、然るに縲絏の耻を蒙りて關東へ引き渡されん事、無念の次第なり、此上は速に御使を給りて腹切て死し候ふべしと申切て、彼寺を出でざれば、殘る二人を松岡一人召具して、まづ駿河に參る、大御所此由を聞召され、下手人を參らせらるゝ事、延引に及ぶのみにあらず、罪なき者を下手人に差出さるゝ事、御憤り尙淺からず
  1. — 지면 그대로. 寛政重脩諸家譜(輯2 長坂)에서 같은 사건(元和元年 松平忠輝에게 살해)의 피살자는 信時(六兵衛), 호소한 이는 형 信次로, 본서의 「弟十左衞門」·「血鑓」와 맞지 않는다. 血鑓 통칭은 信政·信宅 부자. 인물 비정 미확인
介殿大に恐れ給ひ將軍家に就きて御歎き申させ給ひけり、かくて明れば元和二年正月の末より、大御所御違例の事ありて、將軍家夜を日に繼きて馳せ參らせ給ふ、介殿この由聞召し此際に及びて、かく御勘氣かうふらせ給ふ事を深く歎き給ひしかど終に御免の旨もなくて、同四月十七日大御所かくれさせ給ひ、其後御遺言に任せて伊勢國朝熊に移らせ給ふべきにて、此年八月十二日關東を御立ちあり、同十四日相摸國小田原の宿に至らせ給ふ時、御飾を下さる御歲二十五にならせ給ふ、同廿日朝熊の山に入らせ給ひ、金剛證寺を御住所となさる、程なく亦此山の麓妙高庵に移し參らす、
世に傳ふるは介殿御勘氣うけ給ひし後、駿河の宿老より既に御不審かうふらせ給ひて、猶も御國にましまさんこと然るべからず、且は遠き境より御歎き仰せられんも、便よかりぬとも覺えず、まづ上野の國藤岡の邊まで渡らせ給ひ、關東へ御歎きあるべうもや候と申ければ、さらばとて彼所に至り給ひぬ、大御所御違例の事傳へ聞かせ給ひ、せめては近き境までも參り向つて、よそながら御有樣を傳へ承らばやと、駿河の宿老の許へ仰せ遣はされしかば內々の仰せもやありけん、蒲原の邊りに來り止まらせ給ひ其後國府に入せ給ひ臨濟寺を御旅館となさる、かくても御所に參り給ふ事は叶はせ給はず、大御所かくれさせ給ひ、御葬式終てのち、將軍家久能の山へ參らせ給ふ日、九鬼長門守守隆仰を承り、兵者引具して、彼の御旅館を守る、其後又東國に趣き給ひ、武藏の國深谷に至り給ひ、增上寺の住持觀智國師を賴ませ給ひて御歎きあり、此所は往來の巷なりとて、又藤岡に歸らせ給ひぬ、將軍家關東に歸らせ給ひて、六月廿六日花井主水が首を刎ねらる、此程は常陸國に流されて松平丹波守康長が預りにてぞありける、又安西右馬允もおのが命を惜み身の置き所なきまゞに、主の罪訴ふる事、勇士の本意にあらずとて、是も首をば刎られたり、かくて介殿藤岡に歸らせ給ひ五十餘日を送り給ひて後、將軍家宿老の人々より、御愁訴緩々ならんこと然る可らず、御供少々召具せられ、如何にも忍びやかに淺草の御館に入らせ給ひ、國師を賴ませ給ふべうもや候と申ければ、やがて淺草の御館に至り給ふ、程なく神尾刑部少輔守世近藤石見守信用、御使にて伊勢國朝熊に移らせ給ふべしとありしかば、只この儘速かに首を刎らるべしと訴へ給ひしを、二人の御使とかく慰めまゐらせて罷り出づ、此日堀丹後守直寄、越後國に向ひ小笠原左近大夫長政、信濃國に向ひて城々を受取る、八月十二日介殿伊勢國に趣かせ給ふとて、大御所より賜らせ給ひし相國寺と聞えし御茶入、浪游といふ御刀、將軍家へ歸し參らせらる、是は汝の賜はりし所なり、いづくまでも身を離さで携ふべき物なりとて返させ給へば、土井大炊頭利勝に預けられ、上下侍廿餘人御供に參り、近藤石見守信用御送にぞ侍ひける朝熊の山は殺生禁斷の結界にて、此所に住む人は魚肉を斷ちて喰ふことを得ず、信用此事を愁へて此旨かくと關東に申しければ、此山のふもと妙高庵に移させ給ひしとなり、
世に傳へしは、飛驒國へ移され給ひし時、御使は中山勘解由なり、介殿仰せけるは初め此所に流されし時、に御許1しを蒙り自害すべき由を申せしに、御許しなければ、つれなき命ながらへて今に至りぬ、いかに耻ちがましく此處彼處にさまよふべき、只この所にて、かうべを刎ねらるべしとありければ、中山仰せ承りぬ、さりながら御答の旨、某が所存に相違せり、其故は此朝熊の山と申すは海邊無碍に近く、しかも殺生禁斷の所なり人遠き境にて御徒然の折からは、御鷹狩川道遙をもさせ給ひて、御心をも慰められんには便ある所なれば、飛驒國へは渡らせ給へとなり、されば將軍家の御心既に平らかせ給ひけり、御歸國のほど遠からず、あはれ愛でたき御使を承りぬる者かなと存じて參り向ふ所に、案の外なる御答を承りて驚入て候、只とにもかくにも、仰せに從はせ給ふべうもや候と申けれども、更に御承引もなく、さらば其旨を以て御聽に達すべきにて候とて、關東に早馬を參らせて、かくと申す、將軍家聞召され、いかにも彼が心に任せて、御使は速に罷り歸るべしとありしかば、中山此由を介殿に申し御暇を申し關東に歸らんとす、如何が思ひ返させ給ひけん、此上は汝よきに計ふべしとて、中山を御供にて朝熊の山を下らせ給ひければ、今迄の預り人九鬼長門守守隆、道の程警固して、此處彼處にて御供の人々を留めし程に、彼國に到らせ給ふ時には、隨ひ參らする人僅に三四人には過ぎず、預り人金森出雲守重賴が手に渡し參らせて、中山は御暇申て關東に歸る、かくて介殿御心改らせ給はず、けしかる御振舞の多ければ、金森守護し參らせんこと如何にも叶ふべからずと辭し申ければ、又信濃國に徙され諏訪因幡守賴水に預けられ給ひぬ、御齡も既に傾き御心も昔には變らせ給ひ、諏訪また善きにいたはり參らすれば、此所を遂に御住所とや思召し定め給ひけん、其後は靜かに籠り居させ給ひけり、御歲九十三歲にて天和三年七月三日にかくれ給ひき、
  1. — 지면 그대로. 「時、」와 「に」 사이에 글자가 빠진 저본 오식으로 보임