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가문 목록 › 第十二下 › f179

富田

第十二下 · 단락 4 · 780526 48코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 26 19 10 10 7 6 6 5 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1

지명 6 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

信濃守源知高は、或書には知照とあり左近將監某が男也、或書には左近將監信廣と云ふ左近將監初め平左衞門尉と申して、豐臣太閤いまだ近江の國長濱の城、領し給ひしより仕へ參らせ、一生の高名多き中に、天正十二年の春北畠羽柴不快の事起てのち、秀吉の仰せ承りて平左衞門尉、瀧川左近將監一益と共に伊勢國木造の城を守る、戸木の城と云ひし也かゝる所に一益尾張の國蟹江の城に牒狀し前田與十郞に謀を合せて、信雄のために蟹江の城を守りし大將なり彼國を打從へんとす、前田やがて與みしてけれは、一益また九鬼大隅守嘉隆と相談して木造の城を去て一益嘉隆が軍兵都合二千餘人、大船に取り乘て尾張の國に押渡り蟹江の城に趣く、德川殿の御勢に攻められて、からうじて城に入る、寄手つゞいて攻めければ、九鬼兵船に取乘て落ち失せぬ、瀧川前田怺へずして頓て降人になつて出づ、同二十七日一益再ひ木造の城に歸り來る、富田かくと聞て、一益羽柴殿の御爲に守れる城を私に去りて後、かたきの中より歸り來る事、疑ふ所なきにあらずとて、城中に入る事を許さず、秀吉富田が振舞ひを大に感じ給ひ、從五位下に叙し左近將監に任し、伊勢國安濃津の城を賜ふ、
或記に左近將監は初め豐臣家にして事を執りし者なるが、石田が爲に讒せられて、其權日々に衰へけりと云ふ、按ずるに德川殿豐臣家と御中直りの後、始て榊原式部大輔が御使承て上洛せしに、富田が家を旅館に點せられ、其後相摸の北條が訴に依つて、眞田安房守が上野國沼田の城を、北條に下け渡せし時にも、富田は津田隼人佐と二人、關白の御使として下向しき、されば或記にいふ所の如く初め彼家にて事を執りしなるべし、
其男信濃守知高、父に繼きてのち、慶長五年の秋東西の軍一時に起る、知高初より德川殿に從て東國に候ひしが、德川殿の御方として八月朔日東國を立て、夜を日につぎて本國に馳せ歸る、池田侍從輝政とは年ころ親しかりければ、三河國吉田の城に至て輝政の船共借て軍勢取乘せ、伊勢の國に押渡らんとす、斯る所に九鬼大隅守嘉隆が兵船に行き逢ふ、敵はさすが多勢なり、取籠められては叶はじと思ひしかば、知高頓て九鬼が船に近付て、大坂の御催促承て知高も馳せ參らんが爲に、急き東國を去て唯今本國に戾り候と、誠しやかに語て其所を漕き別れ、遂に伊勢の國に着て都合其勢千六百、安濃津の城にぞ籠つたる、分部左京亮政壽も、おのが上野の城は要害然るべからずとて、富田が城に馳せ加る、去程に同き月廿三日長束大藏大輔政家を軍奉行として、毛利が軍勢雲霞の如く押寄せたり、明れば廿四日分部左京亮政壽、城中より打て出て攻め戰ひ痛手おうて引退く、知高散〻に防き戰ふ寄手の中にも松浦伊豫守討死す、敵目に餘る程の多勢にて、入替々々攻めし程に一二の城を破られて今は詰の城に閉ち籠る、廿五日の朝寄手既に詰の城に攻め入らんとす、知高城戶押開き打て出で大勢の中に切つて入る、宗徒の兵五百八十人枕を並べて討死し、終に敵を追ひ拂うて城中に引て入る、かくては中々此城に怺へつべうも見えざりしに、高野山木食の上人來り逢て敵味方の戰ふを止め、さま〱に拵へ知高終に城を去て高野山に趣き、城をば毛利が手に受取て軍勢分つて守らせたり、かくて關が原の戰終て後、此度の勸賞に知高所領の地を加へ賜りて本領を安堵す、二万石加へられて七万石を領すと云同き十三年伊豫の國板島の城賜て移る、十一万石一說に十万石板嶋は今の宇和嶋をいふ十八年十月八日知高罪蒙て所領沒收せられ、森伊豫守に召預けらる、これ創業記に出つ、一說に奥州岩城に流されて鳥居左京亮に預けらるといふ
知高が妻は浮田安心入道が娘、浮田左京亮が妹たり、左京亮後には坂崎對馬守と申せしなり、この左京亮が家に浮田左門といふ者あり、知高が妻にも左京亮にも甥なりけり、左京亮近く召仕ふ小童を彼の左門親しう相語ひけり、初め左京亮かの小童罪ありしとて侍して打せたり、左門かの小童が仇報はんとて小童うちし者を切てけり、安心入道、左門が誅せられん事を歎き、文かきて左門に持たせ婿の富田が許へ落す、左京亮、富田が許へ使立てゝ左門返し賜はるべしといふ、爰をも逐電し畢んぬと答へしかば左京亮大に怒り富田と刺違へ死なんとて、慶長十年五月自ら安濃津の城に趣く、折ふし富田は伏見にあり、左京亮又伏見に來りて軍せんと犇く、人々是を制しければ左京亮大御所にかくと訴へけり、今は天下の事將軍に讓り給ひぬ彼の御裁斷を仰くべしと仰せ下されしかば、此年六月十五日富田浮田伏見を立て關東に趣く、兩人が訴ふる所其證なければ御裁斷にも及び難し、其後富田は伊豫の國を下し賜り、左京亮は坂崎對馬守と申してけり、かの左門も富田が許に溜りかねて、彼處を忍ひ出で高橋右近將監元種が許に行て隱れ居たり、高橋もと富田と親しきが故なり、知高が妻彼れを愍みて年毎に米三百斛を與ふ、都の商人これを傳へ送る、初め左門と同じく迯け失せし坂崎が侍一人ありけり、心變りして知高が妻の許より、左門に米與ふる由の文を取て、坂崎が許に持ち參て見せたり、對馬守大に悅ひ此文を取りて十八年關東に參る、此時大御所も關東に渡らせ給ひしかば、十月八日に將軍家に富田坂崎を召决せらる、坂崎此度は彼文を證としける上は、富田爭ふに辭なく罪を蒙り、高橋も是にぞ坐したりける、左門も終に誅せらる、明れば十九年三月信濃守知高が舍弟佐野修理大夫も、罪蒙りて所領沒收せらる、精しき事は佐野が傳に見えたり、