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가문 목록 › 第十二下 › f180

稻葉

第十二下 · 단락 9 · 780526 50코마 L부터

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지명 3 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

初め道通が姉の夫牧村兵部大輔某、朝鮮の軍に隨ひ彼國に卒す、其男幼ければとて牧村が所領伊勢國多氣渡會兩郡の地、藏人道通に賜て岩出の城にぞ住しける、牧村が男は與一といふ、稻葉に養はれて人と成り長兵衞尉といふ、時移り世かはりて關が原の合戰の後、道通東國の御恩に預りし上は、故兵部大輔が所領を其息男に返し與ふるに及はず、長兵衞尉心うき事に思ひけん、稻葉が許を去て都に上り、亡父に親しかりしかば其所緣に就きて加賀の國に行き、利長中納言を賴み居けり、大御所駿河に移らせ給ふべしとて、國府の城築かれし時、牧村も彼處に行き加賀の人夫の中に立交りて大石共引かせ居たりしに、忽に人來りて刺殺して失せぬ、多くの人の中に立ち隱れしかば、殺せし者の行方を知らず、此時に牧村が家は絕えてけり、此長兵衞尉が姉あり、是れも加賀の家に在りしが、後に將軍家に近く仕へし祖心比丘尼これなり、
太閤薨し給ひて後、慶長四年の秋九鬼大隅守嘉隆と、道通と相論の事起る、德川殿の御裁斷に依て、九鬼が訴ふる所非據に定つてければ道通悅に堪へず、九鬼は無念の事に思ひ、やがて子息に家を讓て籠居す、明れば五年の秋德川殿、奧の上杉御退治あるべしとて御下向あり、道通御供に隨ひしが、仰せ蒙る旨あつて路次より引返し、おのが岩出の城に止る、
德川殿上方の軍起らん事を知召して返されしと聞ゆ、此時道通乘物より下りて、供の侍の如くにして國に歸りしに、道にていづくともなく鐵砲の音して、かの乘物に中れり、希有にして免かれ歸りしとなり、
程なくまた上方の軍起り、九鬼大隅守嘉隆其催促に從ひ、子息は關東に參りしなり其家の傳を合せ見るべし當國中嶋に要害を搆へ、岩出を去る事一里なり軍兵を籠て岩出の城を攻め落さんと支度す、九鬼が姪婿堤庄藏と云ふもの大將たりといふ藏人道通安からぬ事に思ひ、今一色といふ處に嘉隆が兵粮數多ありと聞て、先づこれを燒き拂はんと軍兵を差遣はす、敵中嶋の要害を出て防き戰ふ、味方勝軍して首廿三切て引返す、頓て關が原の戰事終て、道通勸賞賜て同國度會郡田丸の城に移る、本領は二万六百五十七石也文祿三年に檢地して二万五千七百石を領す此度二万石を給て合て四万五千七百石なり同き十二年二月十二日道通三十八歲にして卒す、其子淡路守紀通年僅に五歲にて父に繼き、童名大夫十三歲にして大坂の軍に從ふ、松平下總守忠明は舅なりければ、彼手に付て軍し首切て獻す、首十〇忠明また伊勢の人々の大將を承る故なり明れば元和二年下總守忠明、大坂の城賜て移る、忠明が乞ふに依て紀通攝津國中嶋の城に移さる、
寛永元年紀通叙爵し、丹波國天田郡福知山の城を賜て移る、本領のまゝ慶安元年四月身の暇賜ておのが城に歸る、同秋八月紀通謀反の企ありて、既に往來の旅人を禁殺すと聞えしかば、隣國の大名以の外に周章し、軍勢を引具して其境に打臨み、關東に早馬を參らせたり、此月十六日紀通此由を聞て大に驚き、先づ京職の許に使者を立て誤りなき由を陳す、板倉周防守重宗この由を聞て陳じ申さるゝ旨一々に承りぬ、當時大坂の鎭守阿部備中守正次の所勞甚しきに依て、御使として彼息男對馬守定次既に彼處に來り留れり、幸に執政の人近きにあり須らく早く定次の許に行き向つて、陳じ申さるべき者かとぞ答へける、紀通さらば大坂に行き向て申し披くべしとて、供人少々召具して打立たんとす、いかに思ふ所やありけん同廿日未時ばかり自ら腹切て死してけり、年四十六歲と聞えき、紀通が謀反跡方もなき空言なりけるに、忽ちにかく亡びし事こそ哀れなれ、
或人の語けるは、玆年紀通國に歸りしのち、侍二人罪ありて一人は所帶を召放しけり、其外一人罪を恐れて逃げ去りぬ、又土民商人の中に、かの罪せられし侍の餘黨たる者、誅せられしもありき、さればかの罪せられし一族從類、怨み思ふ輩多く、さらぬ家人等も土民等も大に恐れ、去りし年の頃より御許し蒙りて城廓を修し築く事ありしを謀反の企あるが故に、かくは要害を專らにしけるなど云ひ、ひそめきあへり、かゝる所に去りしころ紀通、京極丹後守高廣が國に使して、其國に出ではべる鰤、給るべきよしを乞ひしに、京極さる腹あしき人にて、稻葉は我領の土產乞ひ受けて、奉行頭人に送らん苞苴の料にこそすれ、でさんなれ、すべき樣こそあれとて、鰤百一々に首うち切て送てけり、紀通大に怒て京極が家人の此所通らん奴、打つて此恨晴さん者をと待ち居たるに、丹後の國の飛脚通りぬと聞て、急き櫓に飛ひ上り、自ら鐵砲を放ちて打ちしに、京極が飛脚には中らで他國の飛脚なりけり、いとゝだに侍も民も恨み懼れて、あらぬこと云ひそめきし折柄なれば、此事夥しく言ひ罵りし程に、事隣國に傳へて、諸大名以の外に周章に及びしとなり、かくて紀通大坂に行き向て申披かんとせし時に、寄手既に近つきぬと、國中亂れ騷きし程に、此上は力なし我今何事を恨み參らせて、謀反を企つべきや、これ徧に近國の大名等が我が家亡さんが爲に、かくは結搆しけるとこそ覺ゆれ、とても遁れぬ者ゆゑに、耻がましき死をせんより、自害せんにはしかじとて、鐵砲の火藥まき散して死しなん後に、これに火付けて燒き立てよとて自ら腹切つて失せぬ、火かの藥に移りしかど希有にして燃え出でず、夫を自ら鐵砲にて腹うち貫きて死せしなど、世には言ひしと云々、又かく鐵砲の火藥火付けよと言ひし事は、此際に至りて家人等が振舞ひを憎しと思ふ事共ありければ、一度に皆燒き殺さんが爲にやとも云ふなり、○紀通に男子二人あり、兄竹松と云ひしは四歲にて世を早うす、弟の大助と云ひしは襁褓の中にありしを、稻葉美濃守正則に召預けらる、誠は紀通が謀反跡方もなき空事なりしかば、明る二年の三月半、一族家人等を召されて彼の男が命助けられ、父が資財悉くに賜る、同き四年五月疱瘡を煩ひ出し、六日四歲にて卒しけるこそ哀なれ、