攝州花隈の城は荒木攝津守村重が一族荒木志摩守元淸籠れり。天正八年信長の命にて附城を構へ、花隈の北諏訪が嶺には護國公、西の方金剛寺山には士大將伊木淸兵衞忠次、森寺淸右衞門忠勝、南の方生田の森には護國公の嫡子勝九郞之助守り給ひぬ。何も花隈より六七町許を隔てたり。三月二日城より兵を出す。勝九郞廿二歲にて組討の功名あり。國淸公此時古新と申す、後に三左衞門尉輝政公十六歲にて御座せしが、是も組討にて首を取り給ふ。護國公敵五六人自ら討取り、伊木淸兵衞、秋田嘉兵衞、堀與左衞門、芳賀五郞右衞門、石黑武左衞門、佐橋武右衞門、後藤市兵衞、波多野彌藏等激く戰ひて追つ崩す。一夜護國公森寺政右衞門を呼んで城中へ忍び入り、能く見來れ、と命ぜらる。森寺行く時梶浦勘兵衞も打連んとす。森寺、今夜の物見は大事なり、相伴はん事叶ふべからず、といふ。梶浦聞きて、思ひ立たる事空しく歸るべきや。自害するより外無し、と中中歸るべき體に非ざれば打連たり。陣と城との間に小き坂あり。城中より武者二人鎗を提げ來るに出會ひ、二人とも討取り首をば草の中に匿し、搦手の水道より忍び入り、又水道より出で、匿し置きたる首を持歸り實撿に入れ、城中の有樣を申せば、護國公、はや城は攻め取りたる心地するよ。如何にしてかは此功を賞すべき。但梶浦は何て行きたるや、と問はるゝに、梶浦承はりて政右衞門に仰せられしを、物蔭にて聞き候、と申す。護國公、近習の人を退けて言ひつる事を立聞し、且軍法を破りたる、と怒り給ふ。其時森寺、只今忝き仰を承り候ひき。さして賞美の望み候はず。勘兵衞が咎を許させ給ひ候へかし、と申せば、護國公、偖止みなん、とぞ仰せける。斯くて七月二日に及んで、生田の森の南へ馬の草苅に雜人出でけるを、城中より兵を伏せ置きて追つ散しけるを、生田の森の附城より是れを見て、藤九郞、馬上に鎗を橫たへ、續け者共、とて馳せ向ふ。梶浦兵七、河崎忠三郞、大陽寺左平次、臼田喜平次、日置淸十郞など追ひ續き聲を擧げて切り懸る。竹村喜左衞門、乾平右衞門、長谷川新次郞鎗脇を射る。淵本彌兵衞は四寸角の柱の一丈餘なるを打振りて、敵を叩き伏せ相戰ふ。金剛寺山の伊木森寺も大手の軍烈しきを見て、搦手より乘つ取らんと押寄する。城より野口與一兵衞と言へる者、半町許打つて出で防ぎけるが、野口も討死すれば城際へ押詰むる。大手の戰に寄手多く討れ危かりければ、引き返さんと護國公、梶浦に詞を掛けらるれば、勘兵衞、唯今上んとせば、彌亂足に成るべし。先程は鐵炮の數少く覺えつるに、俄に增たるは、搦手より大手へ救來りぬらん。政右衞門早搦手へ押詰め乘り込み申すべし。然るに只今大手の味方を引取らば、敵搦手へ廻りて政右衞門討死すべし、と申す。護國公尤なりとて、往きて見來れ、と仰せられしかば、勘兵衞馳著けて云々の事なりといふ。政右衞門、好くこそ言ひたれ。早乘り入るべし。大手を攻められ候へと言へ、といふ。勘兵衞此の場を見棄てて歸らんは口惜けれ共、使の仰重ければ、とて駈け歸り斯くと申せば、護國公、無二無三に乘り破れ、と下知せらる。勘兵衞は城兵の必ず突いて出づべき門脇に詰寄せたり。搦手よりも伊木、森寺先を爭ひ門を破りて攻め入りたり。森寺は今年の春案內は好く見たりし故、門を破る透間に傍の屏を踰え、敵鎗にて突きけれ共、飛び込みて其儘討取りたり。梶浦が察せし如く搦手は防ぐ兵少かりければ、攻め入りて火を懸けたり。城兵も大手の門を押開き切つて出る。勘兵衞待ち請けて鎗を合す。城兵爰を切り脫けんと死狂に成りて戰ひけるに、寄手搦手より攻め入りたるが、敵の後へ切つて懸りしかば、城兵濱邊を指して敗北せり。兵庫の築島に雜賀孫一郞花隈の加勢として有りけるを、伊木、森寺先陣にて押寄せ攻め落す。此の時湊川にて勝九郞五輪作右衞門といふ剛の者と鎗を合す。森寺政右衞門も馳せ著きたれば、作右衞門引つ返して退きけるが、五輪の指物を、是は隱れ無き指物なり、兩人へ進するよ、と言ひて川へ飛込みて迯れ得たり。黑き四半に白き五輪の形を染めたるなりしとなり。信長より勝九郞國淸公に馬を進せらる。護國公、今度の軍我目前にて各功名したるなれば明に見屆けぬ。中に就きて梶浦が決斷、鎗を合せたるよりも忙しき場に好くこそ察したり、とて返す〲賞美有りけるとぞ。