東西分目の役、德川家康將帥百餘人を統べて小山に至りけるにぞ、上杉景勝長沼に軍し、兵を分け嶮を守りて今や遲しと待ちかけたるに、豫て上杉の臣直江兼續の約せし事にしあれば、上方に於て石田三成豐臣秀賴の命を矯り、毛利、浮田、島津、小西諸將と倶に兵を擧げて美濃路に差懸りける。家康此由を聞きて大に驚き、家康子秀康をして萬人を以て宇都宮を守らしめて、其身は自ら兵を引きて西上しける程に、兼續兵を悉して之を躡らんと請ひけるに景勝聽さず。時に秀康來りて戰はんと請ふに會じければ、景勝答へて云ふやう、先人謙信軍を用ふる未だ甞て人の危に乘らず。吾れ亦敢て違はず。且公年少し、我が敵に非ず。吾れ公の父內府の還るを待ちて決戰なさんのみ。糧仗如し缺乏る事有らば當に相給すべし、と乃ち兵を收めて會津に歸りける。此事謙信が勝賴に勇を成さしめたる事と同うして、共に大人の所爲と謂ふべし。