馬場重介職家は陸奧栗尾川貞任が裔孫にて、備前邑久郡北地村に來り居しが、其後も安部といひけるに、京都より來りし馬場氏の人豐原に居て、其の女を妻として遂に馬場と稱しぬ。重介稚名を岩法師と言ひて、十三歲にて邑久郡戶石の城主浮田大和守に奉公し、天文十四年浮田直家は乙子の城に在りて大和と軍あり。直家の士池田太郞三郞と岩法師東北地村荷蓋の畠にて鎗を合せ、疵を蒙りて、戶石の城に歸る。今年十四歲なり。大和守膝に抱き上げて、疵の口を自ら吸はれけり。無雙の剛の者なりとて、名を二郞四郞と改めさせられぬ。程なく直家、花房又七、近藤五郞左衞門、一說に六郞左衞門星野十郞を大將にして戶石を攻む。二郞四郞白團の腰差指いて一の城戶口に出る。近藤見て、如何に引くか進むか、と詞を掛くるに、二郞四郞軍場に臨んで引くと云ふ事やある、と言ひも終らぬに、花房、星野共手利の射手にて、弓取り直し是を射る。花房が矢は中指に中り、星野が矢は二郞四郞が持ちたる楯を本はぎまで射貫く。二郞四郞物とも爲ず、敵を追ひ拂ひて歸れり。天文十七年赤坂郡鳥取の砦を、大和守攻めて軍あり。二郞四郞膝の口を箆深に射させ、二町許引き退きたる所に、味方に泉養坊といふ山伏來て、其矢を拔けば、足萎へて步む事能はず。大和守の馬に乘りて二三町引き退きたりしかども、馬を返してければ、味方も隔りぬ。敵追つ駈け來らば討死せんと思ふ時、妹婚1なりし片山彥三郞といふ者の弟來て馬に抱き乘せたるに、血鐙を越えて流れ朱に成りたるを、敵見て深手負ひたりと見なしたれば、十文字の鎗を取延べ、頻に掛落さんとする事幾度といふ事を知らず。漸に遁れ得て歸れり。首を取つて見とられて見るといふ諺有るは此時なる可し、と二郞四郞常に言ひけるとなり。是十七歲の事なり。後二郞四郞直家に奉公し與力六十人附けられたり。美作三星の城は、浦上宗景番手の兵を遣りて守らせたるを、安藝の毛利家より附城を構へ、三村家親大將として度々合戰あり。直家より馬場を加勢として三星に籠めたり。馬場愛宕精進するとて、五月二十四日細き流に行きて身を淸むる處に、敵出でたりと聞き、直に行き向へば、三星よりも鎗提げたる士一人來て馬場に並び進む。敵を追詰めたれば附城より出て是を助けて城に入る。門內を見れば、混冑の兵十四五人折敷きて鎗の先を並べ待ちかけたれば、靜々と引き返す。宗景感狀を與へられ、直家夫より重介と名を改めさせ、家の字をやられけり。備前上道郡妙禪寺の砦の合戰に、重介は刀、敵は鎗にて相戰ひ、溝を飛び越えて敵の手の下に潛り入らんとせしに、躓きて俯伏に伏したり。敵勇みかゝりて思ふ所を突き外し行き餘るを、つと立ち上り切り伏せて首を取る。同郡土田の軍にも長六尺に餘れる梶井と言ふ兵を討ち取りたるを、角南恕菴イ慶見て、白き浴衣を著、右の肩を肌脫ぎ、太刀打したる兵の有樣昔の辨慶などや斯くもあらん、と驚きたりと言ふ。則重介なり。永祿十年五月十日土田の上蟹目の軍に、敵五人鎗を橫たへ山の上より來るを、重介坂の下に有りて一人射倒したれども、味方は續かず。引き返す時、山の腰を引き退く味方、敵追ひ詰めて旣に討たれぬ可く見ゆれば、返し合せ敵を切り靡け、味方を助けて引き取れり。備前岡山の城主金光與次郞を、直家謀を以て殺し、城を取り得たれども、近き邊に敵多ければ、戶川平右衞門を城番とするに、與力六十人皆行き兼ねたり。重介、我代らん、といふに、何の子細か有べき、といふを、直家に告げて許しければ、重介が與力六十人一人も辭退する者無きに、戶川が與力も勵まされて、重介、加勢ならば行かん、と言ふより、戶川馬場三年岡山に在り。美作三の宮の城を直家一時に攻めらるゝ時、城主村上勘兵衞士卒六十人許にて突いて出る。重介眞先に進み、鎗武者四人薙刀武者四人と戰ひて城門の際まで追討す。敵鎗を投突にしたるを奪ひ取つて歸る。高城にての軍に、直家重介を谷の受手とす。敵來らざれば谷より上る處に、山の半に鐵炮を五段にして待ちかけたる處に行きかゝり、三段追崩す。四段より搏つたる鐵炮に、右の膝より臀にかけて打通され、敵聲をかくれば、重介、中らず、というて四段をも追立てる。崩れたる土手あるに、冑の錣を傾け、寄添ひて待ちたるに、柴折り掛けたる谷の向より打つ鐵炮、脊割具足の右の肩かひがら骨の內より臂まで打貫かれ目暗みたり。氣を靜めて見れば、田中藤介間近く來れり。重介田中を呼びかけ、大事の手負ひぬ。此處を退かんとせば追討に遭はん。爰を死所とせん、といふ。藤介、我一支も爲べし、といふ。重介五間ばかり步みて、郞等の肩に手をかけ靜に退くを、敵慕ひ來れば、藤介鎗を合せ追退けて歸れり。鐵炮に中りし時、大木を以て袋を突き通すが如く覺え、物の色目分かれず。只朝顔の花の色に見えたり、と後に語りけるとなり。備前兒島八濱にて軍有り。浮田七郞兵衞忠家の子與太郞大將にて、戶川平右衞門、岡平內已下渡海し、麥飯山の敵城近き邊にて草を苅る時、敵出て追つ立つる。與太郞馬に輪をかけて味方の兵を求むる處に、鐵炮內冑に中りて馬より落つ。中村宗介同じく討死す。重介馬を射られ、乘り放し步立になりぬ。月毛馬、葦毛馬、黑馬に乘りたる敵三騎、重介を目にかけて馬を乘り寄する。重介敵に馬を乘りかけられじと、鎗の鋩を後になして脇に挾み、靜々と退く。疲れはしつ、討死よ、と思ひたるに、敵引きて助かりぬ。戶川見て、今日の働ゆゑ我一命を繼ぎたり、と重介を譽めたる處に、寺尾孫四郞、今日は重介を見ず、といふ。重介先にて見ざるか、後にて見ざるか。一番に進みたる敵の馬の毛色、物具は如何に、と問ふに、孫四郞赤面して詞なし。重介、吾鎗脇に弓をもて、後の證に立たれよと云ひて敵一人射倒したる人有り、といへば、鷹見傳兵衞進み出て、某にて候ひき、と言ふ。中納言秀家大坂より備前へ下らるゝ時、雨中の徒然に、浮田修理、同太郞左衞門、花房又七三人を呼んで、軍物語の時、前代の鎗柱功の勝れたるは誰ぞ、と問はるゝに、馬場重介、幸和織部、寺尾孫四郞三人、と答ふ。秀家聞きて、幸和寺尾は武功ありつれど輕薄なりと聞けり。何時とても重介が人に越されたる事なしと聞きつれば、重介こそ勝れ候はんなれ、といはれしかば、三人、重介が武功は申すに言葉も候はず、と云ふ。重介貞實にて諂はず。城下の近き邊に引き込みて、此頃は耕作して有りける由を秀家聞きて、三百石加祿の折紙を、戶川肥後をもて重介に與へらる。如何にしたりけん事達せず。重介是を聞き愈出る心なく、遂に秀家にも仕へず、七十七にて病死す。士は假初にも汚なき心有る可からざるなり。吾數度の戰場に臨み、百死の中に一生を得て、斯く全く終りぬる、と遺言しけり。其子孫池田家に仕へけり。
- 誤植妹婚 — 底本「婚」。文脈(妹の夫)から「婿」の誤植か。