長曾我部盛親は大坂の城落ちしかば、落行きて葭の中に潛まり隱れ居て、其臣中內惣右衞門飯を持ち行きけるを、蜂須賀の士長崎三郞左衞門が足輕、もと土佐の人にて中內を見識り居しかば、斯くと告げて遂に二人共搦められけり。盛親捕れとなりて後藤堂高虎と軍せしに、井伊の赤旗に妨げられ、高虎が首を見で口惜き、とて齒嚙しけるとなり。此は高虎使を直孝の許に遣りて援を乞はれしに、直孝も木村を切崩し、追討になりて士卒散々なれば、詮方無く、戰は一手切、と答ふ。高虎の使木俣淸右衞門に逢ひてけり。木俣、彼に見ゆるは伊達政宗にや。疾く行きて援を乞はれよ、と言ひしかば、使、道遠き所に狼狽へ行く武士や候。歸りて軍に會はん、とて馬を引返す。木俣、さらば、とて赤旗を進めけり。
○長曾我部盛親生捕らるゝ事
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一說に、盛親を生捕り、伏見に參り御玄關に到る。井伊直孝、安藤對馬守、土井大炊頭列座し、軍の事を問はるゝに、盛親申しけるは、六日の晚必死の軍すべしと存じ極めたるに、赤旗の橫合に來りて候を見て、疲れたりし軍兵故打負けて候、といふ。格子の內に台德院殿の御前に侍臣二三人立ちて、其陰より盛親を御覽有りしに、盛親も是を察しけるにや、其方を屹と見て居たりけるとぞ。中內は主君の此期に及ぶまで附從ひたりし忠節を感ぜられ、蜂須賀に賜はり御許されを蒙りけり。一說に、長曾我部を牛捕りて1繩二筋附けて白洲に引据ゑたり。台德院殿御側の士を以て、數千の大將たる身自害をすべき事なるに、さは無かりしは如何ぞ、と御尋ねあり。盛親臆れたる色も無く、朝の軍に打勝ちたれども後の軍に赤備の軍兵に打合ひて、味方數多討死し敗北せし事是非なき次第に候、と申す。又討死するか自害するか、二つの志も無かりし事返す〲も不審なり、と再び御尋ね出されしに、長曾我部承り、盛親も一方の大將たる身に候へば、葉武者と同じく輕々しく討死すべきに候はず、と申す。再び兵を起して恥を雪ぐべき心言外に顯れたり。さて其後引出して警固し居たりしに、飯をうづ高く盛りて長曾我部に据ゆる。盛親警固の士の中溫順しやかに見ゆる人を呼びて、昔より名將も搦め捕らるゝ事例多ければ、露ばかりも恥と思ふ事なし。然るに斯る賤しき食物を据ゆる禮儀やある。疾う〱首を刎ねてこそよけれ、と云ひける時、井伊掃部頭側を打過ぎ之を見て、法も無き振舞どもかな、と大に怒り、御厨に下知して潔く料理を調へさせ、繩を解かせ座敷に長曾我部を招き入れ、いと懇に勞れを休め給へ、と言はれしかば、長曾我部、是こそ禮儀を知りたる武將の道よ、と悅びて、始終少しもひるめる氣色は無かりけるとぞ。
- 誤植牛捕りて — 底本「牛」。振り仮名「いけど」から「生」の誤植か。