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岡部

第六 · 段落 1 · 780522 52コマ Lから

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地名 4 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

内膳正藤原長盛は、左大臣武智麿公の四男、參議乙麿卿の末葉、遠江守爲憲が六代の孫、岡部權守清綱が後胤、次郞右衞門尉正綱が男、家の系圖には、清綱より正綱に至て、十三代といふ、其間系圖に漏るゝ人多かるべし、世々駿河國に住して、今川の被官たり、上總介氏眞の時に當て、外舅武田信玄の爲に、駿河國を陷され、永祿十一年の冬、遠江國懸川の城に落來り、また德川殿と戰ひ、此城にも、たまりかね、明れば十二年の五月、遠江國をも、德川殿へさけ渡し、所緣に附きて、北條を賴みて、伊豆國戶倉の城に落行く、かくて此處よりまた駿河國府に歸らん事を議せらる、國府の舘は、武田が爲に既に燒れて、暫しも住み玉ふべきやうなかりしかば、森川日向守、小倉内藏助等に仰せて、府の舘を修せらる、其後岡部次郞右衞門正綱、同治部右衞門、森川小倉に加りて、此事を承る、同き十二月七日、武田入道再ひ駿河に入て國府を攻む、前亡の餘類城中に馳集る、僅かに侍五十餘人には過ぎず、正綱防き戰て、容易う落さるべうも見えず、信玄のた玉ひけるは、正綱故主の恥を雪かんとて、僅なる勢を以て、此城に立籠り、我が多勢と戰を决す、志の程こそ神妙なれ、されば千兵は得易く、一將は求め難しといふ本文あり、如何にもして岡部兄弟を召し使はゞやとて、鐵山和尙といふ僧を媒にて、味方に參るべきよし、色々と宣ひければ、此上はとて正綱、武田に從ふ、信玄大に悅ひ、今川にて給ひしより、十倍の地を知行させ、元は三百貫、今三千貫といふ、侍五十騎附けて、侍大將となされ、駿河國清水を守らしむ、天正十年の春、武田亡ひ、同き夏、織田殿また失せ給ひて、甲斐國再ひ亂る、正綱が今川に仕へしより知しめされし者なれば、德川殿御消息を賜ひて、御方に召さる、甲信兩國程なく靡き隨ひし事、大畧は正綱が功とぞ聞えたる、その賞として、甲駿に於て、所領の地を下し給ふ、七百五十貫の地明れば天正十一年、正綱四十二歲にして死す、子息彌次郞長盛、生年十六歲にて父に繼ぎ、天正十二年二月十日本領を安堵し、此年四月長湫の戰に先駈て、秀次の勢を打破り、自ら首三つを切る、同き六月十九日、德川殿北畠殿と同く、伊勢の國下市場の城を攻めらる、九鬼右馬允嘉隆うしろ矢射んとて、兵船に取り乘て押寄す、長盛一勢馳せ向て戰ひ、九鬼が甥長兵衞尉を生捕り、嘉隆散々に成て引返へす、同き十三年閏八月、宗徒の御家人等と、信濃國上田の城を攻む、御方利なくして引返へす、長盛大久保平岩のめん〱と、同しく取てかへして戰ひ、同き廿日、長盛一勢人まぜもせず、眞田父子と戰て、御感にこそ預りけれ、御書を給て賞せらると云、十六年四月、従五位下に叙し、内膳正に任す、關東に移らせ玉ひし時、上總下總等の國にて、所領の地を賜ふ、一萬二千石關が原の戰には、下野國黑羽根に陣取つて、上杉が勢と戰はんとす、慶長十二年伏見の城を守る、是を城番といひしなり同き十四年八月六日、丹波國龜山の城を賜ひ、三萬二千石大坂前後の戰に從ひ、元和七年八月同國福智山の城に移り、五萬石寛永元年、美濃國大柿の城に移る、五萬石同き九年十一月二日長盛六十九歲にして卒す、嫡男美濃守宣勝父に繼ぎ、これより先、慶長十四年十二月廿八日叙爵す、寛永十年播州龍野の城に移る、本領の儘同き十三年攝津の國高槻の城に移る、本領の儘同き十七年九月和泉の國岸和田の城に移る、六萬石寛文元年十月廿七日、致仕入道して、可賢と號し、同八年七十二歲にして卒す、其嫡子内膳正行隆家を讓られ、五萬二千石舍弟等に所領地分ち與ふ、主稅五千石、阿波守二千石、