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土方

第八下 · 段落 5 · 780524 34コマ Lから

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地名 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

河內守源雄久は、大和守賴親賴光の弟七代の孫、土方太郞秀治が後胤、彥三郞某が男なり、父彥三郞某、織田殿の御手に屬し、天文の末美濃の國に向ひ、土岐が勢と戰て討死す、雄久年纔に三歲にて父に後れ、童名は彥三郞長大の後、勘兵衞尉と名乘て北畠殿に仕ふ、生年十八歲、伊賀の國の戰に、よき敵二人に鎗執て渡り合ひ、一人を突き伏せ、一人が打太刀、鎗の柄にて受け流し、引組んで刺し殺し、終に二人が首を取る、是れ高名の初にて、度々の武勇を顯し、天正十二年の春、北畠殿の仰せ承り、岡田長門守を誅戮す、
或記に云ふ、土方雄久若かりし時、美濃守護齋藤右兵衞佐龍興に賴れて、齋藤山城守が子二人を、同じ枕に切り伏せ、北畠の家人岡田を誅せられし時も、雄久武勇を顯せりと云ふ、岡田を誅せしは勿論なり、龍興が爲に山城守が子討ちしといふ事、如何があるべきや、龍興が亡ひしは、永祿七年八月の事なり、此時雄久十二歲、龍興いかでかく幼き者を賴むべき、又龍興が弟殺せし事いまだ聞かず、山城守が嫡子右兵衞大夫義龍、二人の弟喜平治孫四郞を討ちし事あり、此等を誤り傳へしなるべし、其家の系譜にも、此事見えず、世に誤り傳ふる事此類猶多し此年秀吉軍起して北畠殿と戰ふこと、度々に及び、同き冬、信雄秀吉中直りし給ふ時、雄久使を承て、事調ひしかば、其賞行はれて、尾張の國犬山の城をぞ賜りたりける、四万五千石信雄流され給ひし後、關白家に召仕はる、太閤薨し給ひ、明る慶長四年の秋、淺野彈正少弼長政が計らひにて、雄久大野修理亮治長と共に、德川殿さし殺し參らせんと結搆すと申す者ありしかば、如何なる罪にも行はるべかりしに、德川殿寬宥の御沙汰あつて長政己が國に籠居し、雄久治長、流されて大名に預けらる、土方は佐竹に大野は結城殿に同き五年の秋、東西一時に軍起る、德川殿雄久を小山の御陣に召し、御使にさゝれて、加賀國に馳せ向ふ、此れは中納言利長、外戚につきて雄久と親しかりし故とぞ聞えける、外從兄弟と申すなり關が原の合戰終りて後、雄久利長と共に大津の御陣に來りて見參に入る、雄久が御使の賞、行はるべしとぞ聞えければ、或人德川殿を諫め參らせて、抑も彼の雄久が、初め君を失ひ申さんとせし罪、輕からず夫れが命助けさせ給ふだに候を、重て所領賜はんこと餘りに賞の過きたるにや候と申けるに、汝が申所、理あるに似たり、さりながら彼等が初の謀、家康に私の仇を搆ふるにあらず、偏に秀賴の爲に忠を致さんと思ふにあり、古の人は舊惡をだに思はずと聞け、これは短慮の誤てる所なり、何ぞや深くこれを咎むべき、まして此度の騷亂に、雄久我が爲に使して、北陸を鎭め、治長又關が原の先駈す、家康に功なしといふべからず、如何で其賞なかるべきとて、遂に所領を賜ひけり、
初め加賀國にて一萬石を賜ふ、其地鷹狩の爲に便ありとて、利長土方に乞うて能登の地に替へらる、此後雄久又加恩蒙り、終に二萬二千石に至れりと云ふ、一說に、初め伊勢の地一萬石賜ひ、加賀の利長も一萬石の地與ひられき、是れ德川殿內々の仰ありし故なりとも云ふ、子息等が分ち領せし所を以て見れば、雄久が所領は二萬七千石にあらずや、
慶長十三年十一月十二日、雄久五十六歲にて卒す、嫡子丹後守雄氏、父が所領を分ち賜ふ、伊勢國三重郡一万石、近江國栗本郡1二千石、凡一万二千石なり雄氏初め關が原の戰に、海道の御供し、大坂前後の戰に、將軍家の先陣し、首二つ切て献り、身煩ふ所ありとて、寛永十二年三月、子息木工助雄高に家を讓る、雄高男子なかりしかば、舍弟立圓入道が子を養て世嗣とす、備中守雄豐、雄高が家を繼き市正に任す、其子木工助豐高、靱負某
  1. — 底本のまま。「栗太郡」の誤植とみられる
掃部頭源雄重は、河内守雄久が二男、慶長九年年九歲にて關原に參1り、將軍家に近仕し、父が遺領分ち賜ふ、大坂前後の戰に從ひ、首八つを献り、元和八年九月廿八日、所領の地加へ賜ひ、岩城にて五千石を加へられ二万石を領す、能登の國にて一万石奧州にて一万石といふ、寛永五年十二月廿九日卒す、三十七歲、其子河內守雄次、父に繼く其嫡子山城守雄直二男民部某
  1. — 底本のまま。慶長九年の文脈のため「關東」の底本の誤植とみられる。未確認