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屋代
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 屋代勝永 11屋代秀正 10屋代忠正 7上杉景勝 3春日信達 2徳川家康 2武田晴信 1織田信長 1酒井忠次 1小笠原貞慶 1真田昌幸 1屋代家臣堀口太郎兵衛 1佐竹義宣 1安藤正次 1矢野正倫 1徳川秀忠 1屋代忠興 1屋代忠至 1朝倉一至 1
지명 信濃国 4越後国 3信濃海津城 3信濃国屋代 2関東 2中山道 2摂津国大坂 2甲斐国 1信濃丸子城 1信濃屋代館 1信濃国更級郡 1尾張小牧山 1奥州 1北陸道 1東海道 1美濃国関ヶ原 1摂津国今福 1安房国北条 1
夏目が記を考るに、去年六月、高坂小笠原眞田等上杉に背き、北條に組せし時、事顯れて、高坂源五郞誅せられ、國人等が謀事相違せり、勝永も內々國人等と謀を通ぜしが、事成らざりげれば1、其事となく日を送りし内に、家老堀口太郞兵衞といふ者の一子、少しの罪にて誅せられしを恨み屋代が家を去て、越後に行き勝永が謀反の事を告んとす、勝永たまりかねて、海津の城を去る、景勝此由を聞て清野、寺尾西條、綱嶋、大室、保科等の國人に仰せて、屋代討たるべしとありしかは、勝永また屋代を去て、關東に逐電すと云々、
- ざりげれば — 지면 그대로. 「ざりければ」의 탁점 오식으로 보임
此時甚三郞の御弓の頭たりといふ事、關が原の諸記に見えたり、當家諸役人系圖並に諸役人帳を見るに、屋代が御弓頭なりしを載せず、不審、但し此時諸役人多くは山道の御供たりし故、大御所の御供は新に仰付られしなり、といへば、假なる事ゆゑ役人系圖等に漏せるにや、又按ずるに甚三郞後に越中守に任す、武家補任を考ふるに、一に秀正と云云、又世に傳ふる所忠照としるせるあり、不審、吉正後に叙爵して越中守となる、大坂の軍起りし時、佐竹右京大夫義宣が陣の檢使として、安藤治右衞門正次と同しく、今福の堤に向ふ、慶長十九年十一月廿五日の戰に、越中守父子先懸し、一二の柵を打破り、手の者多く討たるれども、子息甚三郞忠正生年廿一歲、矢野和泉守を討取る、大將既に討れぬれば、敵は怺へず城中さして引て入る、明れば元和元年五月七日の戰には、越中守吉正、將軍家の御旗を司り、甚三郞忠正又よき敵二人を討つ、手の者共に首四つ切らせて獻る、政事錄大坂の首注文の下に、屋代甚三郞同心首四つと記るせり、此時に忠正物頭たるへし、大坂兩御陣供奉帳諸役人系圖等に、その事見えず、もし此時御旗奉行を承れる越中守といひしは甚三郎忠正が事にや、いまだ詳なる事を知らず、萬治三年、忠正叙爵して越中守に任す、是より先、寛永十五年二月、寄騎十騎足輕の兵五十人をつけて、御先手を承る、鐵砲頭と申なり、慶安四年六月、改て寄騎二十騎、足輕の兵百人をつけらる、百人組の頭と云、寛文二年四月廿四日、六十九歲にして卒す、息男甚三郞忠興早世し、その子忠至家をつぐ、實は朝倉平十郞一至が息なり、寛文三年十二月廿八日、叙爵し、越中守に任す、今領する安房國北條の地一万石、いまだ知らずいづれの比より領せるにや、