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가문 목록 › 第六 › f067

屋代

第六 · 단락 4 · 780522 59코마 R부터

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인물 11 10 7 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 4 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左衞門尉源勝永は、信濃國の源氏、代々當國更級郡屋代に住す、甲斐の武田入道晴信、信州を打隨へし後、彼家の被官として、度々の戰功を顯はす、甲陽軍鑑を考るに屋代は七十騎の大將と記せり、天正十年、武田が家の滅し時、丸子の城に立籠り、越後の上杉に屬し、本領の地を安堵す、此時信長討たれ玉ひ、信濃國の人々或は上杉に從ひ、或は北條に隨ふ、勝永元より景勝に屬しければ、人質をば越後國に納て、我身は海津の城を守る、明れば十一年の三月、勝永海津を去て、おのが屋代の舘に引こもり、酒井忠次に就きて、御方に參るべき由を申ければ、本領更級郡安堵の事を仰せ下さる、
夏目が記を考るに、去年六月、高坂小笠原眞田等上杉に背き、北條に組せし時、事顯れて、高坂源五郞誅せられ、國人等が謀事相違せり、勝永も內々國人等と謀を通ぜしが、事成らざりげれば1、其事となく日を送りし内に、家老堀口太郞兵衞といふ者の一子、少しの罪にて誅せられしを恨み屋代が家を去て、越後に行き勝永が謀反の事を告んとす、勝永たまりかねて、海津の城を去る、景勝此由を聞て清野、寺尾西條、綱嶋、大室、保科等の國人に仰せて、屋代討たるべしとありしかは、勝永また屋代を去て、關東に逐電すと云々、
  1. — 지면 그대로. 「ざりければ」의 탁점 오식으로 보임
f067.p003교정 완료59L:2–6
酒井大久保の人々と心を合せ、二心なく爰かしこに戰ひしかば、御書を賜て賞せらる事、度々に及ふ、小牧の戰ありし時も、信州に留て守る、關東に移らせ給ひし後、屋代に給ひし所の地、諸書に見えず、慶長五年、奧の上杉中納言を追討のため、御下向の時、北陸山道の諸大名の御下知を奉て御使たり、子息甚三郞吉正、德川殿足輕の大將を承て、海道の御供せり、
此時甚三郞の御弓の頭たりといふ事、關が原の諸記に見えたり、當家諸役人系圖並に諸役人帳を見るに、屋代が御弓頭なりしを載せず、不審、但し此時諸役人多くは山道の御供たりし故、大御所の御供は新に仰付られしなり、といへば、假なる事ゆゑ役人系圖等に漏せるにや、又按ずるに甚三郞後に越中守に任す、武家補任を考ふるに、一に秀正と云云、又世に傳ふる所忠照としるせるあり、不審、吉正後に叙爵して越中守となる、大坂の軍起りし時、佐竹右京大夫義宣が陣の檢使として、安藤治右衞門正次と同しく、今福の堤に向ふ、慶長十九年十一月廿五日の戰に、越中守父子先懸し、一二の柵を打破り、手の者多く討たるれども、子息甚三郞忠正生年廿一歲、矢野和泉守を討取る、大將既に討れぬれば、敵は怺へず城中さして引て入る、明れば元和元年五月七日の戰には、越中守吉正、將軍家の御旗を司り、甚三郞忠正又よき敵二人を討つ、手の者共に首四つ切らせて獻る、政事錄大坂の首注文の下に、屋代甚三郞同心首四つと記るせり、此時に忠正物頭たるへし、大坂兩御陣供奉帳諸役人系圖等に、その事見えず、もし此時御旗奉行を承れる越中守といひしは甚三郎忠正が事にや、いまだ詳なる事を知らず、萬治三年、忠正叙爵して越中守に任す、是より先、寛永十五年二月、寄騎十騎足輕の兵五十人をつけて、御先手を承る、鐵砲頭と申なり、慶安四年六月、改て寄騎二十騎、足輕の兵百人をつけらる、百人組の頭と云、寛文二年四月廿四日、六十九歲にして卒す、息男甚三郞忠興早世し、その子忠至家をつぐ、實は朝倉平十郞一至が息なり、寛文三年十二月廿八日、叙爵し、越中守に任す、今領する安房國北條の地一万石、いまだ知らずいづれの比より領せるにや、