民部少輔源忠直は、足利右馬頭泰氏の六男、一色宮内卿法印公深七代の孫、金丸伊賀守藤次が玄孫なり、藤次が時に至て。甲斐の源氏武田が被官となり、武田一族の名字なりとて、一色を改て秋山と名のらせ、又家人金丸が家を繼かせければ、金丸と改め名のりけり、其子若狹守虎嗣、若狭守が事甲陽軍鑑に詳なり、其子筑前守虎義、大膳大夫晴信に仕ふ、晴信無双の勇士十二人を擇らんで、軍の使を定めらる、この筑前守虎義、第一に選み出されたり、虎義男子七人あり、二男平八郞昌次、家の系圖かくの如し、世に直村といふは非か十七歲にして信濃國川中島の軍に從ふ、味方散々に亂れしに、昌次一人、晴信入道の側を離れす、入道大に感じて、土屋は武田譜代の家人、今は其家絕えたるなり、昌次して名字繼せんとて、金丸を改て土屋と名のらせ、廿二歲にして侍大將になされ、廿八歲にして右衞門尉になさる、三方が原の合戰に、德川殿の御内に名を得たる鳥居四郞左衞門尉が首を取る、土屋が家の旗幟に、鳥居を紋とする事は、此時よりぞ始りける、天正三年六月1武田勝賴、宗徒の家子郞等が謀る旨をも用ゐず、長篠の軍せんとする、當家の亡ひん時至れり、昌次が死すべき時、今日に究りぬと思ひ定め、手勢百騎を引具し、信長の陣に向ひ、我身も馬より飛て下り、眞先に進み、柵の木取て引破り〱、切て入らんとせし所に、忽ち鐵炮に中つて死す、三十一才此日武田が軍勢さん〱に戰つて、討るゝ者數を知らず、虎義が五男昌次が舍弟總藏昌恒時に廿才只一騎、主君の供して取て返し、追來る敵を追拂て落ち行く、初鹿野傳右衞門尉馳せ加り、主從僅か三騎にて、本國にぞ入にける、勝賴彼等兄弟が振舞ひを感じて、昌恒をもまた土屋と名のらせて、侍大將にこそなされけれ、
- 天正三年六月 — 지면 그대로. 長篠 합전은 天正3年 5월 21일