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土屋

第六 · 단락 8 · 780522 55코마 L부터

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지명 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

民部少輔源忠直は、足利右馬頭泰氏の六男、一色宮内卿法印公深七代の孫、金丸伊賀守藤次が玄孫なり、藤次が時に至て。甲斐の源氏武田が被官となり、武田一族の名字なりとて、一色を改て秋山と名のらせ、又家人金丸が家を繼かせければ、金丸と改め名のりけり、其子若狹守虎嗣、若狭守が事甲陽軍鑑に詳なり、其子筑前守虎義、大膳大夫晴信に仕ふ、晴信無双の勇士十二人を擇らんで、軍の使を定めらる、この筑前守虎義、第一に選み出されたり、虎義男子七人あり、二男平八郞昌次、家の系圖かくの如し、世に直村といふは非か十七歲にして信濃國川中島の軍に從ふ、味方散々に亂れしに、昌次一人、晴信入道の側を離れす、入道大に感じて、土屋は武田譜代の家人、今は其家絕えたるなり、昌次して名字繼せんとて、金丸を改て土屋と名のらせ、廿二歲にして侍大將になされ、廿八歲にして右衞門尉になさる、三方が原の合戰に、德川殿の御内に名を得たる鳥居四郞左衞門尉が首を取る、土屋が家の旗幟に、鳥居を紋とする事は、此時よりぞ始りける、天正三年六月1武田勝賴、宗徒の家子郞等が謀る旨をも用ゐず、長篠の軍せんとする、當家の亡ひん時至れり、昌次が死すべき時、今日に究りぬと思ひ定め、手勢百騎を引具し、信長の陣に向ひ、我身も馬より飛て下り、眞先に進み、柵の木取て引破り〱、切て入らんとせし所に、忽ち鐵炮に中つて死す、三十一才此日武田が軍勢さん〱に戰つて、討るゝ者數を知らず、虎義が五男昌次が舍弟總藏昌恒時に廿才只一騎、主君の供して取て返し、追來る敵を追拂て落ち行く、初鹿野傳右衞門尉馳せ加り、主從僅か三騎にて、本國にぞ入にける、勝賴彼等兄弟が振舞ひを感じて、昌恒をもまた土屋と名のらせて、侍大將にこそなされけれ、
  1. — 지면 그대로. 長篠 합전은 天正3年 5월 21일
武田が家滅ふる時に當て、一族郞從悉く心變して、後矢射ける程に、勝賴行くべき方なくして、田野の奧天目山といふ所に落行き、かたき此處彼處に起て、今は逃るべきやうもなかりしかば、勝賴は川の邊に敷皮しかせて敵を待つ、跡部尾張守此所に落合て、つと走せ拔けて逃けんとす、總藏昌恒、急度見て、やあ如何に跡部、御最期を見すてまゐらせて、いづく迄かは迯けのびん、不覺さよといふ儘に、大の中指ぬき出し、よつ引て放つ、跡部たゝ中をぐつと射貫かれて、馬より落て死してけり、總藏は勝賴に向ひ、御敵既に近付ぬ、昌恒防矢仕らん、御心靜に御自害あるべしと申もあへず、矢束といて押亂し、近付く敵をさし詰め引つめ、散〱に射る、無碍に矢頃は近かりけり、一筋もあだ矢なく、死生は知らず、矢庭に射倒さるゝ者こそ多かりけれ、其隙に、昌恒が舍兄金丸助六郞昌義、小原兄弟丹後下總女房達の介錯し、腹かき切て伏す、勝賴自ら太刀を拔き、あたりを拂ひ切てまはる、御曹司信勝これも同しく續きたり、昌恒矢種射盡くして、打物の鞘をはづし、切て出んとする所を、かたき六人が鎗に貫かれ忽に地に倒る、四郞不便にや見たまひけん、左の手にて槍一々にかなくり捨て、六人をかけす斬て捨つ、我身又かたき三人が槍に貫れ、父子同しく討れ玉ひにけり、昌恒時に廿七才なりあはれ故大膳入道は、士を養ひ武を講ぜしこと廿餘年、人を殺し地を開きし事五六州、されば、みづから天下定むるに足らずと思はれしに、身死し骨いまだ冷かならざるに、國破れ家滅るに至ては、さしも年頃恩にも誇り、功にも恃みし、家子郞等、强き者は君父に背きて後矢射、よわき類は妻子携へて逃げ匿れ、此日天正十年三月十一日、四郞と共に死したりしは、侍、雜人僧童、都合纔にに四十四人、中にも一方の大將、侍の司など云はれし者、日頃の契をたかへぬは、總藏昌恒只一人、兄弟三人舍弟金丸助六郞昌義、舍弟秋山源藏景氏なり、同く死せしこそ、無慙なれ、民部少輔忠直、此時わづか年五歲、清水神戶などいふ父が手の兵共、兎角して駿河國に落行て、清見寺の住僧に參らす、天正十七年、德川殿御鷹野の序、此寺に入らせ玉ひし時、此兒して御茶を進め奉る、德川殿つく〱と御覽し、住持の僧を召て、此兒の有樣、尋常の者ならず、何者の子ぞと問はせ給ふ、さん候、誠にや候らん、是は甲斐の土屋がみなし子なりと申て、成人の後、僧になし、父が跡とはせよとて、所緣の者が得させてこそ候ひつれと申す、德川殿さればこそ、さる者の子なれ、家康に賜ひなんやと仰せらる、僧は大に畏り悅ふこと斜ならず、頓て御輿に載せ歸らせ玉ひける、若君御迎の爲に出向はせ玉ひしに、御輿の內より、年ころ竹千代殿に、ふところ刀まゐらせんと思ひしに、けふこそ求め得て侍れとて、自らかの兒の手の引ながら、御輿を出て玉ひ、若君に參らせられ、また阿茶の局1を召し、上總介殿の御母長覺院殿の御事、辰千代丸が弟ぞと思ひ、此子養ひにせよと仰せられしかば、上總介殿と一つ所にひとゝなつて、大相國家の御身近く召し仕る、土屋が嫡流に、元日の門の松より初て、春祝ふべき種々公より下し給ふ事、此時よりの例といふ、御諱字賜て、平八郞忠直と名のりて、十九年の十月、相摸國禰宜内村にして所領を賜ひ、初め三百俵の祿米給ひ、此時に三千石を領せしなり、慶長五年關が原の戰に、山道の御供し、同七年上總國久留里の城を給ふ、二万石
  1. — 지면 그대로. 忠輝(上総介) 생모는 통설 茶阿局(法号 朝覚院). 阿茶局은 다른 인물이라 혼동으로 보임. 할주 「長覺院」도 통설과 다름
初め忠直が母いまだ年わかくして夫に後れて、寄からん方なかりければ、昌恒が手の者共、とかく計ひて、松平周防守が家老岡田竹右衞門元次に嫁せしめしかば、男子をまうく、岡田内記といふ、忠直には母を同じくしたる弟なり、殊に岡田は數度の高名を顯し、德川殿むかしより知召されし者なれば、かれと云ひ、これと云ひ、かの內記を召仕はるべし、忠直が名字與へて土屋と名のらせよと仰せ下されしに、忠直が舊母の弟、召仕るべきよし、誠に忝なき次第なり、さりながら忠直がかく召仕はるゝ事、たゞ忠直が父の名字の故にこそ候へ、又忠直いとけなきより君に仕へて、彼と一所に在らされば、その心をも知らず、いかに母を同しう仕り候とも、心をも知らざらん者に、忠直が父の名字あたへ候はん事、思ひもよらず候と辭し申ければ、申ところ理至極せり、さらばとて、德川殿の近く召仕はれし一位の局に仰せられ、やしなうて子とせよとありしかば一位のつほねが子神尾刑部少輔が弟となして、召出さる、後に神尾備前守元勝といひしは是ありけり、
此時土屋西郷二人が勢を以て、箱根の關を固めらるゝよし、其家にて申傳ふるなり、然るに大坂兩陣供奉幷に留守の記を見るに、冬陣には戶田右京亮、かの關を守る、夏御陣には近藤一黨かと注せり、不審なり、夏御陣の事を疑ひて記せしやうなれば、土屋西郷が守りしは此事か、慶長十九年大久保相摸守配流の後の事にや、
常に大相國家の御側にてひとゝなり、成長の後、民部少輔に任ず、大相國家かくれさせ玉ひて、將軍家御代知召しての初め、譜代の大名撰はれて詰衆を定めらる、民部少輔利直其選みに入れられたり、されど身いたはる所多ければ、事を厭ひて多く引籠りて居たり、年六十九歲にして、延寶三年閏四月廿四日に卒す、嫡男伊豫守賴直、二男相馬長門守勝胤、是は相馬の家を繼く、相馬大膳亮義胤が母は、故民部少輔忠直が異父同母の妹なり、義胤に子なかりければ、利直が二男を以て家繼せしとなり、三男數馬宗直とて、男子三人あり、賴直父に繼き、二万石〇六月廿三日家督を繼き此年十二月廿六日叙爵宗直所領を分つ、二千石内千石は開發田なり賴直家を保つ器にあらざれば、延寶七年八月七日所領沒收せらる、父祖の事仰せ出され、別の義を以て、其子主稅達直に新に所帶を給ふ、三千石父賴直を預け下さる、
但馬守源數直は故民部少輔忠直が二男にて五百石を分ち領す左大臣家に仕へ奉りて、御扈從組の番衆たり、寛永九年十二月五日、御進物番となり、同き十八年七月五日、御書院番の組頭となり、慶安元年十月廿七日、御小姓組の番頭に昇る、明曆の頃、御側衆になさる、寛文二年二月少老の職に補せられ、同五年十二月執政の職となりて、所領加へ給ひ、一万石を加へられ九年六月廿五日常陸國土浦の城を給ふ、此時に至て凡四万五千石を領す、延寶七年二月十五日卒す、年七十二歲、男子二人、嫡子釆女政直、二男水野藤三郞某其外祖水野石見守が世嗣となる、政直萬治元年十二月能登守に任し、寛文五年十二月相摸守となり、父が家を繼く、