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高力

第十一 · 단락 4 · 780525 65코마 L부터

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지명 4 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

攝津守平忠房は、熊谷次郞直實十四代の後胤、三河國の住人高力備中守重長が曾孫也、直實が五代の孫熊谷備中守直鎭が時に至て、足利殿に尊氏將軍隨ひ勳功の賞行れて、始て三河國八名郡の地頭職賜る、直鎭が四代の孫新二郞直家、永享十一年箱根山の戰に打死し、其子兵庫頭重實が時に至て、同國宇利庄に移り、其子兵庫入道蓮貴、名は實長駿河國今川が家に屬し、其孫備中守重長、高力の地に移りしより、高力とは名乘てけり、初め重長安祥二郞三郞殿と互に地を爭うて、戰ふ事止まず、終にかけ負けて御手に屬す、天文四年十二月安祥殿、尾張國森山にて失せ給ひし後、織田備後守信秀八千人を引具して三河國に發向す、此時岡崎殿贈大納言家の御事なり猶幼なくましまして國既に亂れしかば、御一族の人々を始て多くは己が城々に引籠り、岡崎に殘り留つて防き矢射んずるもの僅かに八百人には過きず、重長嫡子新三安長と共に岡崎に馳せ參り、味方の人々と伊田の鄕に打て出で、眞先かけて戰ひ、重長安長父子枕を並べて討死す、重長が二男新九郞重正、岡崎殿伊勢國より本國に歸り入らせ給ひし時、最初に味方に馳せ參り度々戰忠を致し、永祿三年五月德川殿に隨ひ參らせ、尾張國大高の城にして討死す、高力が家父子三人當家の御爲に討死安長が男新三清長、成長の後、與左衞門尉と申す、德川殿御軍始の日より常に軍に隨ひて一度の不覺なく、永祿八年三河國始て平きしかば、頓て奉行職を置て國中の事を治めらる、清長第一に選ひ出されて其職に任じけり、本多作左衛門重次天野三郞兵衞康景と共に三人去程に遠江國の住人久野三郞左衞門宗能が籠つたる久野の城と申は、當國第一の要害、久野が一族究竟の兵者、たとへ何万騎を差向けて攻めらるゝとも、たやすく落つべうも見えず、彼等元より今川の方人にて德川殿に隨ひ參らせず、爰に又遠江國可睡齋の住持は宗能歸依の僧なりけり、清長まづ彼僧に因つて宗能に案內を通じ、早く味方に參るべき由を勸めて兎角計らひし程に、永祿十一年宗能御手に屬しければ、當國の輩多くは從ひ參らせたり、是偏に清長が計らひに依る所なりとて、御感斜ならず、天正九年九月廿三日、遠江國馬伏塚の城に鎌田の地付けて下し賜ひ、明れば十年八月駿河國田中の城を賜て移る、小牧の御陣の時は田中の城に在りて北條に備ふといふ同き十二年關白殿に使して東西御和睦事成しかば、秀吉悅び給ふ事大方ならず、同き十四年叙爵させて河內守になさる、此時豐臣姓を授けられしと云十八年德川殿關東に移らせ給ふに及て、武藏國岩槻城を領す、二万石此年九月秀吉奧に下向ありて岩槻の城に至り給ひ、清長其御待まうけす、斯て關白歸路の日、清長が妻子等なほ田中の城にあり堀田若狹守を御使として物たまはる
息男土佐守正長童名與次郞、成人の後權左衞門尉と申す、生年十八歲にして三方が原の戰に善き敵うつて疵かうむり、長篠の合戰に首切て參らす、武田か侍興津十郞兵衞が首とりしなり此年小山の城を攻めらる、武田四郞うしろ卷きす、岡崎三郞殿後陣を望ませ給て引て歸らせ給ひしに、正長日下部五郞八と返し合せ、武田が兵と戰ひ良き敵うつて參らす、此時敵の首二つを切る長湫の戰に先懸けし堀左衞門督秀政が兵一騎を討つ、凡そ正長一生の高名數を知らず、天正十二年の冬佐々內藏助成政、濱松に來て見參せし時、正長御前に伺候しけるを、是は高力與次郞と申して累世の勇士也と仰せられしを、成政も賀し申せしとぞ聞えし、慶長四年三月叙爵して、同四月家忠日記には閏三月とあり廿二日四十二歲にて父に先立つて卒す、慶長五年の秋、東西の軍一時に起る河內守清長、海道の御供にぞ候ひける、同き十三年正月廿九日清長七十九歲にて卒し、嫡孫左近大夫忠房、祖父に繼ぐ初め忠房父土佐守正長が卒せし年の六月四日、中納言殿の御前にて台德院殿の御事元服し御諱字を賜る、靑江吉次の御刀を給ふといふ明れば慶長五年、東西の軍起りし時山道の御供す、同き十年七月叙爵して左近大夫になされけり、同き十四年三月、岩槻の城火あつて悉くに燒け失せぬ、年毎の冬の頃は大御所御鷹狩の爲、駿河の國府を御立あつて關東に下らせ給ふ、この岩槻の城は假の御所になされし所なりければ、忠房夜を日に繼ぎて城を搆へ假の御所造り出す、幾程なく十二月に至て、大御所この城に渡らせ給ひ、忠房御設する事例にかはらず、大御所其用意の程を大に驚かせ給ひ、御感大方ならず、江戶の城に歸り入らせ給ひ、やがて忠房が舍弟河內守長次を御使になされ、白銀二百枚賜て賞せらる、同き十九年の春、大久保相摸守忠隣流刑に處せらる、忠房宗徒の人々と相摸國に向つて小田原の城を受取る、此年の冬大坂の軍起る、將軍家の先陣うつて馳せ上り、明れば元和元年五月七日の戰に首廿七切て獻る、忠房仰を承て大和國に趣きて、大坂の殘黨を捜り索む同き五年遠江國濱松の城に移る、三万五千石又改めて攝津守になさる、寛永十一年八月所領の地を加へられ、五千石同き十五年の春肥前國嶋原の賊徒平ぐ、彼處は常だにも其人邪法にならつて、かゝる凶逆を成しぬ、まして騷亂の後なればとて、譜第の御家人の中にして其任に堪ふべき者を選れて、同年十一月六日忠房にぞ給りける、四万石忠房彼所を治ること十八年、歲七十三にて明曆元年十二月十一日に卒す、嫡子左近大夫隆長家を繼ぎ、三万七千石三男左京亮政房に所領分つ、三千石〇二男兵部少輔長房は左大臣家に仕へて中奧の御扈從になされ寬永八年二月十五日に卒す隆長初め元和九年八月廿二日に叙爵し、寬文八年二月廿七日罪蒙りて陸奧に流され、松平龜千代丸に預けらる、後に陸奧守綱基が事嫡男伊豫守常長は酒井左衞門尉忠治が預りにて、出羽國鶴岡に流され、二男右衞門某は眞田右衞門信房後には伊豆守預人にて、信濃國松城に流さる、隆長七十二歲にて延寶四年十二月廿五日終に配所に死してけり、
隆長常の行ひ正しからず、士民も悉く虐政に苦む、去年鎭西の國々に御使を下されて、民の疾苦を訪はしめらるゝに、隆長が民苦み訴ふる者多し、抑も此所はむかし騒亂を經たりし所なれば、彼が父攝津守に賜りし時、如何にもして商民等をも集め豊かに治めよとて、金銀米穀などをも下し賜りし所なるに、隆長その跡をつぎて、かゝる振舞その罪尤も輕からずとて、かく罪には處せられしと