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本多

第十一 · 단락 15 · 780525 58코마 R부터

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인물 53 42 22 21 15 6 4 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1

지명 9 5 4 4 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

佐渡守藤原正信は、豐後國の住人本多助秀が後胤なり、助秀が男助定、尊氏將軍に仕へて、尾張國橫根粟飯原等の地を賜る、其六代の孫忠正、三河國に移て其男正定、始て安祥二郞三郞殿に仕へ、正定が子俊正、岡崎の贈大納言家に仕ふ、正信はこの俊正が嫡男なり、正信初め彌八郞と申て、童なりしより、德川殿に仕ふ、德川殿より年長する事四年御軍初の日より所々の軍に、從ひ參らせずといふ事なし、永祿六七年の間ひ、一向專修の門徒等叛き參らせし時、正信舍弟三彌正重と共に上野の城に立籠る、七年二月廿八日諸寺の門徒等、罪免されて悉くに降る、正信國を去て都の方に趣く、松永彈正忠久秀、正信を見て傍への人に語けるは、久秀德川が家より來る侍を見る事少からず、多くはこれ武勇の輩なり、獨この正信は强からず柔かならず又卑からず、必よのつねの人にあらずとぞ感しける、正信松永が許に仕へたりしにや詳ならぞ其後又加賀の國に趣き、小山の邊り山中といふ所に至りて留り住む、天正十年の春武田四郞亡ひし後、德川殿より仰ありて正信を召さる、織田殿に伴ひ給ひ御上洛ありと聞えしかば、正信加賀國を立つて大津の宿に至る、殿は和泉の堺に趣かせ給ふと聞て、頓て彼處に參らんとせし程に、信長明智が爲に失せ給ひ畿內悉く亂る、正信が計ひにて宇治路ひらけて、德川殿事故なく、終に三河國に歸り入らせ給ひぬ、
初め正信累代一向專修の門徒にて双なき其方人なりければ、人々は罪免されしかど、正信は終に國を去りてけり、是より先き畿内東海北陸の國々一向專修の門徒等、此處彼處に蜂起して、世には是を一向の一揆とぞいひける、加賀の國は、殊に其徒の多かりし程に、正信を迎へて一方の大將とは仰きたるなり、また再ひ德川殿に參りし初、明智が亂に畿内の道塞りしを、正信が計ひにて宇治の上林かたらひて、鄕人等をかり催し御供に侍らひしといふ事あり、某むかし峰順が云ひし事共、聞きしに此時某が祖なるもの自ら百人計りを率ゐて、木津川の邊りに迎へ參らせ、多羅尾が館に入れ參らせ走せ歸りて、德川殿こゝに入り來り給ふべきなりと云ひて、川の上下に篝火1たきて守りしかば、光秀が此所を守らせし兵も、又此所に入らせ給ふべしと心得てありし程に、事故なく伊賀國を廻て三河國に歸り入らせ給ふ、是等の事共正信が計ひに依れり、此時の賞に因りて、此所の事某が家代々承りぬど申したりき、
  1. — 지면 자형은 ⺮ 아래 舟·井 모양인 「篝」의 이체자(유니코드로 옮기지 않고 통용자로 적음)
是れよりして後、德川殿の御覺え大方ならず常に御側に伺候して軍國の議に與る、關東に移らせ給ひし時、上野國八幡の地を賜る、一万石〇家忠日記には相州甘繩と云大閣薨し給ひ大坂の奉行等が德川殿失ひ參らせんとせしより、關が原の戰ひ終てのち天下悉く德川殿に歸し參らせし事、正信が功莫大なり、右大將家將軍の宣旨蒙らせ給ひしより、正信は關東の執事として將軍家に隨ひ、嫡男上野介正純は大御所の執事として駿河に在り、父子相並びて天下の權を取る、初め大御所正信を召され、所領の地加へ賜りしに、正信承て年頃御恩に潤うて家富まずといへども又貧からず、一生の計こゝに足りぬ、若りし時だにも、弓箭打物取つてさせる高名もなく、齢既に傾きぬ、此後存生の内また功名の世に望む所更にさふらはず、それ軍國の備へ士を養ふより先なるはあらず、今正信に賜らん所を以て勇力の士に充行はれ、四海の內動きなく、正信心靜かに老を送り候はん事、今の身にては大殿の御恩、是に若く事や候ふべきと固く辭し申す、地を領する事僅に二万餘石と云元和二年四月十七日大御所薨し給ひて後、纔かに五十日と申す六月七日、正信年七十九歲にて卒したり、
大御所正信を見給ふこと朋友の如くにて、將軍家は長者を以て待せ給ふ、正信も又常に大御所を呼びて大殿といひ、將軍家をば若殿と呼ぶ、軍國の機事に至て其謀る所言葉多からず、一言二言にて盡せるよし、諷諭に長ぜる人と見えき、初め大坂にて大名七人、石田治部少輔三成討たんとす、德川殿の人々を制し給ひしに因て事平らきぬ、其時伏見の御館にて正信御前に參りしに、其夜はいまだ亥の半なるに、はや御殿でもりあり、正信打咳き〱參り、今夜は早う御寢ならせ給ふと申す、德川殿いま何事かありて參ると仰せられしに、正信別の事にも候はず石田が事、いかにや思召すと申す、されば我も其事をこそ思ひ謀れと仰せらる、正信さては心易くなつて候ふ、其事思召しはかられん上は、正信何事をか申すべき、御暇給るべしとて罷り出づ、德川殿また仰せらるゝ旨もなし、其時に土井大炊頭利勝、御傍に在つて承りきと、後に石谷將監に語りしなり、また石川丈山の物語りに、正信大御所の仰せられし所、我が心に得ざる時は、打睡りてのみ居て申す旨もなし、又宣ふ所善しと思へる時には、譽め參らすること限りなし、われ大御所に仕へ奉りしこと年多き中に、正信と事を謀らせ給ふと見えし事、僅かに二度ならでは見ず、世の人の事謀るとは樣かはりて、めづらかなり、まづ一度は大御所正信が坐せし所を通らせ給ひしが、立ち留らせ給ひ、三言四言ひそかに仰せらるゝ事ありしに、正信大に譽め參らせ、よく候よく候と申しき、今一度は初め大坂の軍起りて、程なく御中直りありてのち、大御所京に入らせ給ひ、何某を召て汝大坂に行き向ひ將軍に申さんやうは、家康はいづれの日、駿河に歸らんと思ふなりと仰せられて、正信が方を御覽じ佐渡守は如何にや思ふと仰せありしに、例の如く打眠りて申す旨もなし、大御所大きなる御聲にて、やあ佐渡守と仰せられし時、眼開きて先づ物をば申さで、右の手差上げて指をかゞめ、物かぞふると見えしが、大殿よ大殿よ幾年の前に伏見の御館にて、正信が申せし事をば忘れ給ふなと申せしかば、大御所は暫く案じ出させ給ふ御氣色にて、御使仰せ蒙りし人に、まづ今日は使をば參らせまじきなりと、仰ありて內に入らせ給ひしなり夫れを今世の傳ふる所は正信やゝもすれば、古を引き今を證とし理義を分つて毫末に入るやうにいふは、皆後の辨を好む者のそら言にや、○正信の死なんとせし時に、大相國家に申せしは、正信が奉公の勞を忘れ給はで長く子孫の絕えざらん事を思召さば、嫡男上野介が所領、今の儘にてこそ候べけれ、必餘多賜ふべからずと申しき、いかに思ふ所やありけん、其後所領多く賜ひしが果して其家絕えぬ、又正信ある時に嫡男上野介に語りしは、昔大殿濱松の城にましませし時、ある夜外樣の侍三人、御前に召して仰せ蒙る事ありて罷り出づ、其中に一人止りて懷より一封の書を取出して、自ら封を切りて奉る、それは何ぞと仰せられしに、是は某年ごろ諫め奉らんと存ずる所を、書つらねたるにて候、よき序なれば奉る所なりと申す、殊に御心地よげにて、それにて讀み候へと仰せらる、一條を讀み終るたび毎に、申す所ことわりにこそあれと、仰せありて十餘條を讀終て後に、我を諫めんこと此度に限るべからず、此後も思ふ所あらんには憚る所あるべからず、汝が志のほど神妙の至也と感し仰せ下されしかば、彼人悅にたえずして罷り出づ、正信御前に在りしに、只今の申し條いかにや聞きしと仰ありしに、事皆細碎にして國家の大務にあらず、殿の用ゐさせ給はん事、一條もなく候ひぬと申けるに、御手を振はせ給ひて、いや〱彼れが智を竭して思ひ謀りし所なり、その智の拙きは如何にせん、彼が年ころ時を得て、我を諫めんと思ひし事こそありがたけれ、世の人みづから我が過ち知る、事多からず、過ちと知りなば誰か過つべき、善しと思ひ誤るより過ちはあるなり、卑しき人は親族朋友互に諫め爭ふ事もあれば過ちをも知りて改めぬ、是れ卑しきが一つの益なり、位貴き者には親族も交り疏く、まして朋友といふ者もあらず、朝夕日夜我が前に伺候する者の、如何にもして主の心に逆はざらん事をこそ思ひはかれ、いかで其過ちたゞさんと思ふに暇あらんや、たとへ希有にして諫めんと思ふ者ありとも、其過ちの大ならん事をこそ云はめ、少しき事ならんには、さて止みなん、凡そは少しきなるが積りてこそ大なる過ちにもなれ、過ち既に大なるに至ては、いかに悔ゆとも及び難き事もあるなり、されば我聽くほどの事、みな耳に逆ふ事なくて一生われに過ちありといふ事を知らで過きぬ、これ高きが一づの損なり、古より家滅し國失ふ皆諫めを聞く事なくて、我が過ちを知らざるが故にあらずや、此事を思ふに縱令いかなるひが事ならんにも、我を諫むる事ならんには、皆忠言とこそ思ふべけれと仰ありき、あり難き御心なりけりと、頻りに涙を流し語りしに、正純聞て其人誰なるらん、又いかなる事をや申けんといふ、正信聞て氣色損し、其申せし事も其人をも汝が聞て何の益かあるべきと、答へしとなり、此問答にて父子のあひ遠きこと量り知るべきにや、
正信男子三人あり、嫡男上野介正純、二男安房守政重は加賀國にあり、三男大隅守忠純といふ、上野介正純年十九より大御所に仕へ、終に執事の職に至り、下野國小山の地に近江の地添へて下し賜る、三万二千石大坂の兵初めて起りしより終に亡ぶるに至るまで、正純が謀少からず、其男出羽守正勝大坂の軍に天王寺より向ひ、眞先かけて戰ひ乘たる馬の首切て落され、乘替に乘ておめいて駈け遂に敵を打破り兩御所の御感に預る、明れば元和二年大御所薨し給ひし後、正純關東に參て將軍家に仕ふ、執政たること元の如し、
元和五年に下野國宇都宮の城を賜ふ、十五万石正純政務を輔くること凡そ廿三年、元和八年出羽の最上が家亡びし時、御使承て山形の城に向ひ父子忽に罪かうふりて、此所より同國由利の地に流さる、時に正純五十八歲子息正勝父に先立ちて卒す、正純七十三歲にして寛永十四年三月十日、終に配所にてこそ死しけれ、正勝が男忠右衞門某右大臣家の御時に召出さる上野介正純が罪定かならず、まづ世に遍く傳ふるは所、元和八年四月十七日、大御所の御遠忌に依て大相國家、日光山に詣で給ひ御歸路に正純が宇都宮の城、假の御座所となさる、此時失ひ奉るべき結搆ありしを告け申す人ありしかば、其夜密かに城を御出ありて江戶に歸らせ給ひ、其年の秋配流せられぬといふ、又曰くこれのみにはあらず、初め上の御旨をも伺はで擅に己が城を修し築く、又大御所の御時より根來衆といふ足輕の兵百人を附け給ひしに、かの城修する時その百人を役に充てんとせしを、我々私の役に從ふべきやうはあらじと、催促に隨はざりしを、一日が中に悉く斬つて捨つ、此二條既に上を輕しめ參らせ大法を犯せり、己が城にて失ひ參らせんと謀りしといふは、跡形もなき事也、それも人々疑ひし事ありしに依てなり、假の御所中の遣戶每に、また戶一つ宛を設けたり、是は若し地震して地傾き戶の開かざらん時に、遣戶より出させ給ふべき爲に、結搆せし所なり、其時かゝる事は世になかりし程に、これは軍兵亂れ入ん爲の料なりとて、人々怪む、御湯殿の板敷踏まば落ちんやうに巧み、其下に悉く劍たち並べしなどいふは、跡方もなき事なりといへり、某奧に下りし時、宇都宮の城を出で、あなたに原あり其中に大なる塚あり、これを根來塚といふ、處の人に問へばかの百人の兵を埋めし所なりといふ、百人の兵殺せしは一定なり、また彼城に三日月堀といふあり、正純新に穿ちし所といふ、これ世に傳ふる丸馬出といふ者なり、しかれば正純が城修し築くといふも一定なり、凡そ此二箇條共に正純いかでか私には取計ふべき、上の御聽に達せざらんには、其罪實に輕からず、されども實は此等の事のみにはあらず、罪かうむるべき由ありしとなん、其事誰かは知るべき、宇都宮より忍びて還らせ給ひしは、深き御心ある事なりといふ人あり、夫に又二條あり、一條はさもありなん一條は覺束なき事なり、世に傳へて益なきに似たり、抑も彼父子の功、天下に多き事かくの如し若し罪を天に得るにあらずんば、いかで其の家絕ゆべき、大相國家佐渡守に天下治め給はんやうを尋させ給ひしに、一卷の書したゝめて奉りき、かの草案世に出でしを某も見たり、天下第一の書なり我が師たりし人も常に此書の事を云ひ出して、王道の最上なりとて感じき、されば斯程の名臣の子孫の、などか斯くは成り行く、必其故ありぬと覺ゆ、其說また事長ければ略しぬ、○坂崎出羽守が上を恨みまゐらする事ありて、己が宿所に立籠りし時に、執政の人々相議り坂崎がおとなが許に奉書下して、汝等が主違犯の罪逃るべからず、汝もし汝が主の家絕えざらん事を思はゞ、汝が主勸めて自害させよ、さあらんに於ては汝が主の世嗣立て給ふべき由を下知すべしと議定す、其時上野介人々に向ひ、誠に彼のおとなが主人に腹切らせたらんには、かの家立てさせ給ふべきにやと問ふ、人々いかで謀反人の家は立て給ふべきやと答ふ、正純聞てさらば此奉書下されん事然るべからず、かの不臣を罪せんが爲に、又かの臣に不臣を勸め給ふ事、天下の下知に在るべき事とも覺えず、且は天下の政事は信ならずんばあるべからず、只速かに軍勢を差向けて、誅伐あるべきものなり、何ぞ苟くも人臣の敎とすべからざる事を陳べて譌を行ひ、天下の風俗を亂り給ふべきと云ひしかど、衆議一决せしかば、さらば正純は連署叶ふべからずとて署を加へざりき、正純が他事は如何にもあれ、此一言は天下の名言なりといふべしやと、柳生但馬守宗矩常に感ぜられしなり、誠に此一言を以て見るに、此人の若き時より大御所の御覺えよかりしも宜なるにや、又同職の人と其の間の不快なりしも推して知られ侍る、
大隅守藤原忠純は佐渡守正信が三男にて、將軍家に仕ふ、大坂の合戰に天王寺より押寄せ戰ひて、首二百十七切つて獻る、その勸賞として所領の地加へ賜る、下總國榎本一万石の上に下野國皆川の地加へられて二万八千石を領すいく程なくて計らざるほかの禍に罹りて家絕えぬ、ある人の曰く、みづから郞等を誅せんとて、誤ちて死したりと、詳かなる事を知らず
佐渡守正信が弟にて、初め兄と共に德川殿に仕へ、一向專修の門徒にて針崎に立籠り、永祿六年十一月廿七日大久保が一族、針崎に押寄せ戰ひしに、正重七郞右衞門尉忠世とわたしあひ、互に鐵炮を取て向ふ忠世先つ放つてければ、正重手おうて引退く、明れば七年の春、門徒等罪ゆるされて元の如くに召使る、同き十一年十二月十五日掛川の城の先懸し首きつて參らす、元龜元年六月廿八日近江國姉川の合戰に首を斬る、同き三年九月廿五日遠江國一言坂にて、武田が勢を防ぎて引返し、此年冬十二月廿二日味方が原の戰ひに、武田が勢を打破ること凡七度、身疵を蒙る事四ヶ所、二股の戰に武田が兵新村が首を取る、天正三年五月廿一日長篠の戰に首を得る、其後三河國を去て尾張の國に至る、同き六年七月廿六日三位中將信忠卿、播磨國神吉の城を攻められしに、正重瀧川左近將監一益が足輕大將となつて城を攻め破る、十二年九月十三日加賀の國前田筑前守利家が足輕大將として末森の城の後卷し、佐々內藏助成政が勢と戰ひ、十五年四月朔日豊臣關白筑紫の岩石の城攻められしに、蒲生氏郷の軍奉行して先駈けし、慶長元年に至つて、德川殿に見參し元の如くに召仕る、同き五年關か原の戰に隨ひ參らせ、軍中の撿使たり、
此人天性腹あしき人なれど、又極めて正直の人なりけり、ある空寒き夜に大御所に參る、初めより兄の佐渡守御前にあり、夜の御膳を薦む、佐渡守にも膳賜る、人々參り集うて御旨を蒙る事あり、事終つてのち鶴の羹の汁を召させられて、佐渡守に向はせ給ひ、よのつねの羹ならんには、今の程へたらんには、冷になりなんず、この羹はかく温かなるこそいみじけれ、大鳥の老人に益あるといふ、さもありなんと仰せらる、佐渡守箸とり收めて答へ申さんとせし間に、正重進み出て、此正重等が如き小鳥ばらを羹にして候はんには、今のほどには氷り候べしと云ひ棄てゝ御前を罷り出づ、大御所大きに呆れさせ給ひ、いかに正信汝が弟の心いまだ改らざりけり、あの心にては、いかで大名には成さるべきと仰けり、其後また大坂の軍終つて後、坂部三十郞久世三四郞賞行はれしと聞て、その三四三十いかに正重に超えたる武功ありて、賞をば行はれけん安からぬ事なりとて、刀ひつさけて城に登る、坂部久世罷り歸るとて大手の門を出づ、正重が此方に向ひ、もみにもうで來る、けしからぬ者かなと見る所に、橋の半に至りし頃、正重大音あげて和殿原は如何なる高名して所領を賜ひたるぞ、語れ聞かうと呼ばる、久世早くも心得て、左の手にて耳の輪とつて見せたるに、腹から出でさこそはあらめ、和殿原耳の輪は大く生れたりとも、武功に於ては何條正重には及ふべきと、つぶやき〱打連れてぞ歸りける、
f157.p014교정 완료65L:3–5
明れば三年七月三日七十三歲にて卒す、子息豐前守正貫家を繼ぐ、正重遺言して多くの所領子息に悉く賜はらん事、望む所にあらざる由を申ければ、所領をば減ぜられぬ、
f157.p015교정 완료65L:6–9
此頃は上方の大名卒する時、遺言して所領を返し獻ることあり、世の慣しのやうになりし故に、正重かゝる遺言は無けれども、上野介正純が計ひにてかく申せしかば、正貫には八千石を賜ひしなり、正重が領せし所は一万石に餘ありしかど、如何程といふ事は詳かならぬよし、其家の記にもいふ事なし