安房守源義康は、陸奧守義家朝臣の三男足利式部大輔義國の嫡男新田大炊助義重の次男里見太郞義俊に十代、左馬助義實が後胤なり、義實が父刑部少輔家基、結城中務大輔氏朝と共に、前鎌倉殿持氏の御子春王安王二人の若君を、下總の國結城に迎へ參らせ、嫡子左馬助義實を使として、三浦介が加勢乞ふべしと相摸國に差遣はす、此年嘉吉元年四月結城の城落て、父家基も討たれぬと聞えしかば、義實三浦本曾堀内等引具して、小船に取り乘て安房國に落ち行く、義實時に廿七歲又廿一歲とも云ふ也此時安房國の住人神餘が郞等山下左衞門尉、おのが主滅して神餘の地を押領す、同國の住人安西、丸と謀て山下を討ち平らけ、兩家又彼地を爭ふ、安西東條が加勢乞て丸をも終に計つてけり、去程に丸山下が殘黨、如何にもして安西を討て、主の仇を報はんと謀かる、里見が當國に來るを悅び、義實を大將と成し立て、軍起して安西が舘に押寄す、安西散々に戰て冑を脫ぎ弓の絃ばづして、降人となつて出づ、義實安西を案內者として東條を討ち滅し、安房國を打平け白濱の城を搆へて住む義實七十三歲にて長享元年四月七日死すと云ふ
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里見
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인물 里見義実 12里見義弘 11里見義康 9里見義堯 6里見忠義 6里見義豊 5里見実堯 5足利義明 4里見梅王丸 4神余家臣山下左衛門尉 3里見義通 3里見義頼 3大久保忠隣 3里見家基 2上杉輝虎 2北条氏政 2里見家臣加藤伊賀守 2太田氏資 2豊臣秀吉 2徳川家康 2徳川秀忠 2源義家 1源義国 1新田義重 1
지명 安房国 14上総国 11上総久留里城 5相模国 4安房稲村城 3下総国 3上総佐貫城 3上総久保田城 2下総国国府台 2武蔵国 2相模国三浦 2安房岡本城 2安房館山城 2常陸国鹿島郡 2下総国結城 1下総結城城 1安房白浜城 1上総萩生城 1武蔵浅草寺 1相模国城ヶ島 1武蔵国岩槻 1上総池和田城 1上総国三舟山 1上総椎津城 1
接ずるに1世に傳ふる所は、義實初め安房國に至り安西三郞が許に在り、安西が爲に神餘丸東條を討ち平く、安西後に義實を失はんとせしに因つて、大に怒り安西を亡し安房國を領す、これ明應五年十一月の事なり、明れば六年上總國丸谷上總介をも打滅し、兩國を合はせたりと云々、大に誤れり、明應五年は義實死してより九年の後なり、
- 接ずるに — 지면 그대로. 「按ずるに」의 저본 오식으로 보임
其子刑部大輔成義、上總の國に發向し先づ萩生の城を落し、國人等を打從へ終に安房上總兩國を合はせ領す、其子上總介義通、上總國久保田の城に在り、義通が卒せし時、永正十七年二月朔日三十八歲にて卒すと云ふ其子太郞義豐わづか五歲になりしかば、彼が十五歲に及ばんまで國の事執り行へとて、舍弟左兵衞督實堯に國を讓る、實堯兄が讓を受け安房の國稻村の城に在て、おのが嫡子刑部大輔義堯を大將とし兵船を泛へて相摸國に押渡り、北條と戰ひ又義堯して上總國久留里の城を守らせ、太郞義豐成人に及べども、國讓らんとも聞えず、義豊深く恨みて天文二年七月廿七日稻村の城を襲ひて實堯を討つ、實堯が死せし時五十三歲と云ふ然らば義通と同年なり月劣りにてありしにや實堯が男義堯、軍起して義豊と戰ひ、明れば三年四月六日終に稻村の城を攻め落し、義豊を討て安房上總を領し、御弓の御所の味方として御弓の御所と申せしは古河公方晴氏の叔父にて義明と申せし事なり同き七年の冬北條左京大夫氏綱と下總國鴻の臺に戰ふ、義明かけ負けて討れ給ひ、義堯も散々に戰なつて引返す、これより常に北條と戰ふこと止む時なく、終に下總の國をも合はせ、武藏相摸の地此處彼處打隨へ武藏國豐島郡淺草の觀音堂は義堯が再興せし所也と云ふ子息左馬頭義弘に國讓り自らは入道して正五阿彌と號し、久留里の城に籠り居たり、天正二年六月朔日六十三歲にて卒せしといふ左馬頭義弘父に繼き、弘治二年相摸國三浦の地に押渡て北條が勢を打破り、城が嶋に戰ひしとあり永祿四年の春上杉管領入道謙信、北條を攻むると聞て、正木大膳亮に軍勢附けて上杉に加勢し、同き七年正月武藏岩槻の住人太田美濃守資政を助けんとて、二千餘騎を引率し鴻の臺に出て向て、北條氏康氏政父子と戰ふ、初度の軍に北條を打破り味方悉くに勝ち誇て終に負軍し、侍大將十七人まで討たれ、散々に戰ひなつて引返す、義弘が乘つたる椎津黑といふ馬、殊の外に疲る、椎津掃部これを見て急き馬より飛て下り、義弘をぞ乘せたりける、平野越後たゞ一人槍提けて隨ふ、味方負軍しつと聞えしかば、上總の國に留りし堀内帶刀須田將監、五十騎引具して義弘を迎へ、久留里の城に入る、討ち漏されたる軍勢等、義弘が乘捨てたる馬を見て、大將うたれ給ひぬと云ふまゝに、米下舍人等の城防き戰ふまでもなく、敵のために落さる、是年又上總の國池の和田の城攻め落され、多賀藏人舍弟兵衞佐二人討死す、下總の國人等皆義弘に叛て北條に從ふ、武藏相摸の地は云ふに及はず、同き九年義弘加藤伊賀守を佐貫の城に在大將として三浦の地を攻め破る、明れば十年北條太田新六郞に軍勢附て上總の國に向ふ、義弘自ら三舟山に戰ひ、大將太田を初として首數百を打取る、天正五年義弘北條互に中直りす、明る六年の五月義弘卒す、嫡子太郞義賴には安房國、次男梅王丸には上總國を讓る、太郞義賴父死して後、上總の國佐貫の城を襲ひ梅王丸を生捕て、梅王丸が傅加藤伊賀守と心を合はせ梅王丸を虜にして高瀧右京に預けしなり上總の國を併せ領し安房の國岡本の城に住す、天正九年里見北條又不快となつて、氏政が多勢海陸二手に分れて安房上總に亂れ入る、舘山久留里佐貫の城を攻め遂に椎津廳南久保田萬喜の城を落し軍勢を籠めて守らす、幾程なくて義賴世を早うし子息左馬頭義康父に繼ぎ岡本の城にあり、天正十六年北條が多勢侍大將十一人といふ姓名又勢のほど定かならず上總の國を打從へ、安房の國へ攻め入らんとす、義康自ら久留里の城に出て向て敵を待つ、此城究竟の要害なりしかば寄手山々に陣取つて、遠攻にこそしたりけれ、城中の兵打出て戰はんとす、義康堅く制して戰はず、寄手又爰を過て安房の國に入ることを得ず、かくて十八年に至て、豐臣關白北條うたるべしとて、天下の軍勢を催し東海東山北陸より攻め下り給ふと聞えしかば、寄手取物もとりあへず、本國に引返さんとせし所を、義康城より討て出で是處彼處に追詰め〱戰うて悉くに打取りぬ、此年北條滅びしのち關白、義康が早く御陣に馳せ參らせざる事を怒り給ひ上總下總の地收公せられ、本領なれば安房國を賜ふ、九萬二千石なり其後豊臣の姓賜ひて四位侍從兼安房守になされ朝鮮の事起てのち筑紫の陣に馳せ參る、慶長五年の秋德川殿に隨て奧の會津に向はんとす、かゝる所に上方又軍起て、德川殿御父子引返して攻め上らせ給ひければ、義康は參河守殿と同じく下野の國宇都宮の城に留て景勝と戰はんとす、關が原の戰ひ事終つて、上杉佐竹降つて後此度の勸賞として、常陸國鹿島郡を分つて義康にぞ賜ひける、三萬石義康三十一歲にて慶長八年十月十六日に卒し、息男梅鶴丸父に繼ぎ十一年十一月十五日將軍家の御前にて元服し、安房守になされ御諱字給ひて忠義と名のる、其後四位の侍從になされ、同き十九年九月九日舅大久保相摸守忠隣が緣座に因て伯耆國に流され、元和八年六月十九日に死してけり、里見房州を領せし事十代凡百七十年にして亡ふといふ
夏目が記を案ずるに、大久保相摸守罪蒙りし後、里見安房守忠義、其緣座に因つて流さる、是より先き藤堂和泉守高虎、里見に石を貰ふべしとて家人渡邊勘兵衞志內主水等を舘山の城に遣はして國の樣を見せたり、忠義が罪三條一つに相摸守忠隣の許へ、米穀足輕の兵を合力して、公儀を蔑にし、二つに城を修し或は道作り、或は川を深くし要害を搆へて憲法を犯す、三つに家人を養ふ事おのが分に過ぎぬ、旣に公儀を蔑如し憲法を犯す上は、私の謀ある故かと云々、此箇條の御不審に依て安房國をば收公せられ、常陸國鹿島郡三万石の替地として、伯耆國倉吉の地給はるべしと仰せ下さる、忠義の老正木大膳印藤釆女等、江戶に參て罪なき由さま〱に申披きしかど終に叶はず、松平新太郞光政に預けられ、伯耆の田中に流され百人扶持給り、死して子なければ家絕えぬと云々、