平松金次郞重之、甲州の溫井と同じく天龍川を渡る。平松先達つて陸に上り、船に殘れる從者、温井に無禮の事有りて忽ち切り殺しけり。扨て平松に斯くといふ間もなくて、と云ひければ、無禮する者は我も捨て置かじ、とて色も變ぜず。人皆平松を誹りける處に、幾程もなく長久手の軍に、平松と鳥居金次郞と先を爭うて鎗を合はす。平松が相手は森武藏守長可の士山田八右衞門とて、始め播州三木の城主別所長治に仕へて、名高き勇士なり。平松肥え太りて小男なりしかば、東照宮、さぞ走り廻り不自由ならん、とて常に笑はせ給ひしに、其日御前に進み出で、不行步者、今日鎗を合せて候、と立ちながら申して傍若無人の有樣なり。賞せられしかども、猶不足に思ひけるに、前田利家の士山田出羽、其の時平一郞とて秀次に仕へしが、秀次に申して一萬石の祿にて招かれけり。平松是に約し京に赴く時、心易き朋友に暇乞して立ち去りけるを聞こし召し、追々討手を出させ給ふ。大剛の平松なればとて、第一番に渡邊半藏、續いて河村善七郞、大久保與一郞、坂部治兵衞、段々に追つかけける。坂部袋井にて逢ふ。平松は久能へ行く本坂越に遠州可睡齋に曹洞宗の禪寺立ち寄ると物語す。坂部は兄三十郞に用の事有つて橫須賀へ行くとて打連れたり。道の別れ際にて、久しく逢はじ、と馬より下り暇乞する時、坂部平松を一太刀斬りたるに、如何したりけん、切り外しければ、平松坂部が眉間を切る。坂部眩みけれども、さしもの者にて、落人あり打留めよ、と呼はるを聞き、近所の鄕民群り出づるにより、平松可睡齋に入りたるを取り圍み、橫須賀よりも馳せ集り、寺を取卷きけれども、平松は爰に居らず、といふを、小僧を捕へて責め問ふにより、平松、何方へも逃ぐる者に非ず。爰にて腹切らん、とて立ち出、坂部三十郞に向ひ、治兵衞は殊に親しく語りけれども、不便ながら身に掛る火を拂ひて、是非なく切りたり、と云ふ。三十郞聞きて、治兵衞疵淺し、と答ふ。平松、吾斬る程にて助かるべきや。日比の交故止は刺ざりき、というて腹切る時、三十郞、介錯せんとすれば、平松、治兵衞を吾が手にかけ、今汝に首を討たれんは心よからず、とて同心せざりしとなり。
○平松金次郞始末の事
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又一說に、平松は度々口論の時後れ有り。殊に遠州新井の渡り舟にて、柏原新五郞、平松が從者を討ちたるに、おめ〱として有ければ、人々嘲笑ふ。東照宮聞し召し、人は何ともいへ、平松が眼ざし剛の者なり、と仰せられしが、果して長久手にて懸り兼ねたる處に、平松茜の羽織を著、十文字の鎗を提げ、進み出、池田家の軍兵の眞中に鎗を入れたりける。其後出仕の中にて、諸士に向ひ、吾胎內より厚恩を請け、猥りに一命を捨てじと思ひしが、今は早思ひ殘す事なし。誰にても出でられよ、撫切にすべし。昔の金次郞とな思はれそ。殊の外暴者に成りたり、と大言しけるに、一人も答ふる者なし。平松が勇名高く聞えて、先年天王寺勝曼の鎗、貝殼塚の鎗、備前八濱の鎗をこそ言ひ傳へたれ。平松が鎗は近き頃稀なり、と世の人賞しけり。秀次一萬石にて招かれしかば、平松立ち退きたるを聞し召し、小栗又市、渡邊半藏、河村善七郞、坂部治兵衞を追手に出させ給ひ、岡崎へ早飛脚にて、本多作左衞門にも御下知有り。平松遂に袋井の北なる可睡齋にて自害すともいへり。