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○島津義弘關ケ原退口の事附大坂の商賈義氣の事

卷之十三 第27話 · 段落 5 · NDL 1078984 229コマ L

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關ヶ原の軍敗れし時、島津義弘眞丸に成りて、福島刑部少輔正武の陣の前を切拔けんと一文字に押通る。正武十六才、駈合せんとする處を、梶田又右衞門、死狂する敵に軍はせぬよ、とて追留めたり。東國勢押駈けしかば、義弘の從子中務大輔豐久、義弘の馬の側に乘寄せて囁く體なりしが、軈て大敵に駈合せ討死す。義弘今は是迄なりとて取て返されけるに、阿多長壽入道成淳、義弘の馬の前に打塞がり、大將は千騎が一騎に成候ても猶死せずして、謀をめぐらし候を道とこそすれ。疾く打破りて引退き給へ、といふ儘に馬の首を引直し、島津兵庫頭最後の合戰をするぞ、と呼はりて、散々に戰ひて討死しけり。成淳が義に勵まされ、踏止り支へ戰ひ討死する者多かりける。其暇に義弘又士卒を集め、列を整へ引退く時、松平忠吉、井伊直政剩すな、とて追駈けたり。義弘が兵ども種ヶ島の鐵炮を腰に挿したるを拔出し、ひた〱と折敷きて打懸けたるに、忠吉、直政共に手負ひて、夫より物別したりけり。
一說に、本多忠勝追駈けたるが、馬を鐵炮にて搏たせ、馬より落つれば梶金平馳來りて、己が馬に忠勝を乘せし其間に、島津が軍隔たるといへり。又河上左京が從者柏田源藏が搏ちける鐵炮に、直政中るともいへり。又松田某といふ朝鮮陣の時連て歸りし小兒の成長したるを組にして有りけるが、鹿の角の立物の冑こそ兵部よ。打留めよ、と下知しければ、鐵炮を差向けたるに、直政眉尖刀を橫たへて馬を乘り懸けられしに、彼兵松田某と名乘りて打ちしに眉尖刀に中り、其玉腰骨にかすりて馬より落ちられけり。さて亂鎭りて後薩摩の許に直政を饗せられしに、直政松田を呼出し盃を指し、關ヶ原にて旣に死すべかりし身の幸に存命へて、今日對面する事を得たり、といひて後、我片足をなやみぬ。斯る武功の人に少祿こそ不足に候へ。今日の遇饗に祿を增給はり候へ、と言はれけり。彼の物頭後に、直政の呼出されて對面に及びし時の迷惑なる、一生に覺えず、といひけり。
義弘、近江の甲賀にかゝり、老翁一人案內者にして道しるべさせ、伊賀の山路を經て上野まで行き著かれたり。爰は筒井伊賀守定次の城なり。使を以て、島津義弘唯今打過ぎ候、と云ひ送りて行く處に、野武士四五百人が程山の中に待ちかけたり。義弘物の數ともせず打破り、二人生捕りて上野に立歸り、大手の柵の木に搦め附け、偖て夫より奈良に出で、彼の老翁には刀に差添へられし赤銅の笄を與へ、此を證に必ず薩摩に來れ。今度の勞に報ぜん、とて大坂に至り船に乘り、鹿兒島に歸られけり。
一說に、左近丞と云ふ姓薩摩に有り。是は慶長の頃大坂の商にて、年久しく薩摩の米を商ひける者なり。關ヶ原破れて後、義弘大坂に著かれしに、士一人先達つて彼の商家に行きしかば、彼商待ち侘びたる體にて、君は如何に御座まし候、と問ふ。いやとよ。討死有りしよ、と答へければ、商家淚を流し、年比厚恩を蒙りし事なれば、關ヶ原破れぬと聞くより、必ず爰に渡らせられんと相計りて、船を設けて待ち居たる甲斐も無く、口惜き事なり。せめて御供に參らんとて水中に飛入らんとせしを押留め、今の時なれば人心の計り難くて斯くは言ひしなり。實は一方打破りて爰に御座せしなり、と言へば、斯疑はれしは恨なれども、夫を云はんには時移るべしとて、船に乘らせられん樣をこそ、と言ひも終らぬに、義弘來られしかば、酒樽を積み其間に隱し乘せ、其身も附添ひて直に薩摩に赴きし。其者の子の中、一人薩摩に仕へし其子孫なりといへり。
彼老翁薩摩に行かばやと思へども、道遠ければ空しく過ぎしに、程經て人に誘はれ、鹿兒島に行きて笄を出しければ、など疾く來らざりしぞ、とて種々饗し、黃金五百枚與へ、誘ひし人にも黃金數多與へて、人を添へて送り歸されけり。