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○安養寺門齋三成を生捕らんとせし事附姉川合戰の時門齋生捕られし事竝遠藤喜右衞門討死の事

卷之十四 第2話 · 段落 5 · NDL 1078984 233コマ R

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三成兵を起す時、大津の城に入りて京極高次に對面し、彌秀賴公の味方有る可し、とぞ申しける。高次の士に安養寺門齋と云ひし者、黑田伊豫に向ひ、今三成城中に入る事誠の天の與ふる處なり。搦め取りて關東に奉らん、と云ふ。黑田聞きて、三成を生捕るとも、西國の諸將大軍にて攻圍むべし。爭か防ぐ術の有る可き、とて聞入れず。門齋冷笑ひ、三成は譬へば亂の首なり。其餘は手足の如し。首を碎く程ならば、手足何の恐の候べき。假令押寄せ候とも固く守りて戰ふべし。軍せずして三成を生捕るならば、天下に名を揚げ勳功誰か並ぶべき。吾年老ぬれど三成を搦めん事は容易からん、とて今村掃部をも勸めしかども、爭論に時移りて、三成城を出でにけり。門齋は元淺井長政に仕へ、姉川の軍に生捕れ、龍ヶ鼻の陣にて信長の前に引出す。信長の曰く、今日勝に乘りて小谷を打破らんと思ふは如何に。汝が命を助けなん。此勝敗如何なる可き、と問はるゝに、安養寺承り、長政が父下野守小谷に有りて、其兵三千許もや候ひなん。然るに疲れたる兵を以て輕々しく攻められ候はん事然る可からず、と申す。信長打領いて、今日取りたる首共出して、安養寺に見せて其姓名を問はるゝ中にも、竹中久作が取りたる首を見て、遠藤喜右衞門直繼と申す者にて候。如何なる有樣に候ひし、と問ふ。
久作は元齋藤家の士信長に奉公しけり。姉川にて淺井の士遠藤喜右衞門直繼云ひけるは、信長晝は固く守り、夜々橫山の城を攻む。信長の本陣龍ヶ鼻を一夜討せば勝利疑なし、といふ。長政是を用ひず。然らば斯る圖を外して淺井の家危き事朝夕にあり。軍敗れん時信長を討たん者は吾なり、と言ひしが、言ひつる詞に違はず首を刀の鋒に貫き、大將の實撿に供へん、と云ひて、信長の旗本に來りけるを久作討取つたり。久作兼て、必ず遠藤を吾討取る可し、と人指したりけり。如何なる故ぞ、と問ふに、其子細二つ有り。我江州にて遠藤と相知り、能く見知りたり、是一つ。彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまで優れたり。常に進むに先だちて退くに後る、是二つ、と言ひしが、果して直繼が首を得たり。
竹中聞いて、首一つ提げ、殿は何處に座ますぞ、と云ひて近き進み來りしまゝ、敵の紛れ入りて、殿を切り奉るならんと思ひ、引組んで討取りし、と語りければ、夕部大依山にて若し軍破れ候ならば、必ず生きて歸らじ。信長を一太刀恨み申さん、と遠藤が言ひつるが、果して其詞の如くなりきといふ。
遠藤は淺井家に名有る剛の者なり。信長江州佐和山にて始めて長政に對面あり。公方昭義の歸京の次に、佐々木承禎を攻打つべき事を議し、長政も力を合す可き由の約を定め、岐阜に歸らるゝとて江州柏原に宿せらる。淺井縫殿、中島助九郞、遠藤喜右衞門、三人馳走の爲柏原に行きしが、遠藤早馬にて小谷に歸り、信長を見るに武勇猛にして謀逞しき人なり。淺井家を覆すべき事疑ひなし。今日決斷せられ候へ。臣信長を刺殺し申すべし。其勢に乘りて美濃に攻入り候へかし、と云ふ。長政聞きて、一度約して變ぜん事本意に非ず、とて聞かざれば、直繼再び柏原に赴き、信長を饗し、信長無事に岐阜に歸られたり。直繼常に是を悔みける故、姉川にて獨進んで信長を討たんとしけり。
其次に出せる首を見て、是は安養寺が弟にて彥六甚八と申す者にて候。死なば一所と契りしに、先立ちつる事こそ口惜しけれ、とて、首を刎ねられよ、とて其後は物も言はず。斯る所に秀吉其比は藤吉郞と云ひしが、栗毛の馬の汗かきたるに諸鐙を合せ、白沫嚙せて馳來り、いざ小谷へ押寄せ攻破る可き、と言ひしに、信長、否とよ。輕々しき軍は危し、とて許されず。秀吉、後悔有らんものを、急ぎ寄せ給へ、と强ふれ共、信長聞入れずしてさて止みけり。安養寺は、只首を刎ねられ候へ、と言ひけれども、吾に奉公せよ、とて樣々宥め申されけれども降參せず。遂に許されて小谷に歸りけり。安養寺に謀られて信長軍を返されしかば、淺井三年經て小谷の城落ちたり。其後安養寺、淺井と京極と一族なりし故高次に仕へけり。若き時三郞左衞門とぞ申しける。