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○細川忠興の北の方義死の事

卷之十四 第1話 · 段落 5 · NDL 1078984 232コマ R

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細川忠興の北の方は明智光秀が女なり。父謀叛の時忠興に向ひて申されけるは、父ながら斯る企事能く成るべしとも思はれず。瀧川、柴田など申す人々多ければ必ず軍敗れ候べし。女の淺き智慧にも口惜くこそ存候へ。男の身ならんには鎧の袖に縋りても諫め申すべきを力なし。君もし與せさせ給ひなば、世の譏爭でか免れさせ給はん、と淚に沈まれしかば、忠興、光秀に同心無かりけり。其後程經て秀吉伏見に有りて、諸大名の北の方を呼入れて饗されし事の有りしに、忠興の北の方斯と聞き、女の人なくて一間に入りて他人に見ゆる事やある。我も召されんとならば、とて懷に匕首を用意せられけり。此より秀吉の惡行は止みてけり。石田西國の諸將を談ひて兵を起す時、諸大名の北の方を大坂城中に取入れんとするを、北の方聞きて、傅に附けられし河喜多石見、稻留伊賀、小笠原正齋を呼びて、吾此所を出でん事思ひも寄らず、城中に取籠められんは恥辱なり。よく斷を申候へ。猶聞入れられずば是を限と思ひ定むべし、と語られしかば、正齋、殿東國に向はせ給ひし時、思ひかけざる事の有らんには、正齋計ひて武將の恥な晒しそと仰せ置かれ候ひき。敵奪ひ取らんとするならば、其時思召切らせ給へ、と申しけり。斯る處に、城中に入れよ、と使を以て言はせしかば、再三斷の旨を述べけれども聞入れず。七月十七日の未の刻ばかりに、大坂の軍兵五百餘り玉造口の屋敷を取卷きて、疾く城中に入り申されよ。さらずば亂入りて奪取らん、と呼はりけり。女房儕狼狽て泣悲めども、北の方は騷ぐ色も無く、斯く有らんとは兼て思ひ設けつる事ぞとよ。正齋介錯せよ。我生る世に見えざりし人々に、死しての後も見られんはよからじ、とて面に覆面打かけ括袴著て、刀を拔き胸に突き立てられしかば、正齋眉尖刀にて介錯し、其儘其處にて腹を切らんとせし處に、正齋が小姓走り來り、殿の北の方と同じ所に自害有らば、後の誹の候べき、と云ひければ、正齋、餘の悼しさに忘れたるよ、とて障子の外に走り出で、家に火を懸け、石見と共に腹切つて炎の中に死したりけり。伊賀は光秀より附けられし身なれば、遁るべき道も無きに、人に紛れて落ち失せけり。
忠興後に探し出して誅せんとせられけるを、松平忠吉、伊賀は無雙の鐵炮の妙手なれば、助け置きて若者に敎へさせん、と强ひて乞はれしかば、忠興力なくて止みけり。伊賀は世の交も無く髮を剃り一夢と言ひけり。百發百中の手練なりしかども、人多き中にては大きなる物も中らざりしとぞ。
先だつはおなじ限りの命にもまさりて惜しき契とぞしれ
落出でたる女房の取傳へて世に殘りけるとなん。北の方は兼て斯く有らんと思はれしかば、幽齋の妹年老て宮川殿と申せしと、忠隆の北の方前田利長の妹とに、吾は人質に取られんと世の物いひの候程に、落失せばやと存ずるなり。同じく伴ひ參らすべけれど、人多くては中々憂き目や見る事の候はん。疾く此隣の築地一重踰えて落ちさせ給へや、とて宮川殿は建仁寺忠隆の北の方と浮田秀家の北の方に忍び行きて、此禍を遁れたりとかや。誠に義烈のみに非ず、謀も由々しき人なり、と語り傳へて袖を濡さぬ人もなし。