常山紀談本文データベース

目次 › 卷之二十二 › e480

○石川重之功名竝隱遁の事

卷之二十二 第20話 · 段落 4 · NDL 1078984 350コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

石川嘉右衞門重之字丈山は淸和源氏にて、八幡太郞の第五男石川義時の末なり。世々德川家の臣として、十六の時東照宮の御旗本に召出され奉仕したり。幼少より剛雄の人にて非常なりしかば、七歲の時父、此男は必ず日本第一と世に言はるべきにや。若然らずば日本第一の悍惡の人となるべし、と語られしとぞ。大坂夏の陣に丈山傷寒を煩ひ重かりしに、其母本多氏江戶より文して、汝世々御旗本に仕へ奉り、此軍に武功無くば又對面せじ、とぞ勵されける。丈山人に讀せて是を聞き、淚くみて物も言はず。五月五日東照宮旣に二條の城を打出させ給ひしを聞き、其日は病殊に重く前後を忘じて有りしが、强ひて助け起され、駕籠に搔乘せられて東寺を打過ぎける時に御覽あり。怪ませ給ひ、田上右京に仰せ有りて問はせ給へば、見て歸り、石川嘉右衞門にて候、と申すを聞召し、彼は病重くて死すべきと聞きしに、と仰せあり。丈山八幡に至りて水を三酌掬ひ飮みて、胸の中の苦を頓に忘れけり。其夜は東照宮河內の星田に御陣あり。丈山を召していと懇の御詞をかけさせ給ふ。六日に大坂に押寄せ給ひ、拔駈を禁じ給ふ處に、七日の曉丈山眞先に拔駈して加賀利常の先陣に至り、御使なり、と稱して大軍の中を押拔け、岡山にて敵を討取つたれども、味方其首を奪はんとせしかば打捨てて黑門に打入り、佐々十左衞門と名乘つたる敵を討取り、又敵一人打取つて從者に首を取らせ門を出づれば、馬に乘りたる武者に行逢ふ。遠藤但馬守が士池田勝兵衞といふ者にて有りしが、丈山の功名を感じければ、我は石川嘉右衞門なり、と名乘つて、池田も首一つ得たり、といへば、丈山其姓名を刀の鞘に刻み附けたり。加賀の大軍押續き來れば、又御使なり、と呼はり、押分けて利常に行逢ひ、討取りたる首を見せ申して打過ぎたり。其夜本多安房守丈山と緣有りければ、筑前守利常を證にせよ、と勸むれども、我利名の爲にするに非ず。先祖を辱めざる志のみなり、といへり。此軍に御近習の士首を得たるは、丈山と間宮權左衞門、豐島主膳と三人ばかりなり。丈山御軍令に背きける故賞に及ばず。是より前丈山駿府に有りし時、淸見寺の僧說心に禪理を聞きたりしが、出陣の時暇乞とて寺に至り、此軍に御近習の士首を取りたる人三人ありと聞かれなば、其一人は必ず我なりと知られよ、といひたるが果してしかり。東照宮未だ御旗を駿河に返されざる中に妙心寺に隱れたり。是より學文の志厚く、日夜となく書を讀み經史に通じ詩を善せり。丈山三十三の時とかや。其後板倉內膳正重昌丈山の流落を傷み、淺野但馬守長晟に語りしかば、長晟賓客の遇にていと懇にせられしかば、安藝に行く。老母孝養の爲となり。母終りて後寬永十三年、五十四にて藝州を去つて京師に隱れ居しに、板倉重宗京都に有りて丈山を勞る事大方ならず。諸侯貴人の會する時丈山を座上に招きて、此老は文武の道に達せる人なり、と敬禮せらる。其後比叡山の麓一乘寺に隱遁の地を設け、詩仙堂を作りて詩人三十六人の像を壁に畫き、書籍を友として閑居す。後光明帝御卽位の時、松平伊豆守信綱賀使として京都に參られしに、丈山と親戚たるゆゑ、度々閑居を訪はれけり。承應元年七十歲に及びて、三州泉の鄕は其故鄕たる故歸るべき志あり。板倉重宗に斯くといへども許さざりしかば、今よりは京都へ再び出じ。さらば其許へも參らじ、とて和歌あり。
わたらじなせみの小川は淺くとも老のなみそふかげもはづかし
後光明帝、丈山が隷書に能きと聞召し、高木伊勢守守久、勅命を傳へければ、八卦の字を書きて奉る。上皇も又隷書の大字を書かしめ酒肉を賜はる。寬文十二年壬子五月二十三日、一乘寺の閑居に終りたり。九十歲となり。其詩を覆醬集と名附け、今世に行はる。