伊豆守源信一は出雲守殿親の御孫にて、彥四郞利長の子なり、利長參河國藤井の城に住しければ、時の人藤井の松平とは申しゝなり、天文九年六月六日、利長駿河三河の人々と同く、安祥の城を守り、織田家の軍勢うち破て討死す、其子信一、初勘四郞と申す、參河國長澤の合戰を始とし、一生の高名數を知らず、中にも、永祿六年一向專修の門徒等が亂に、信一無二の御方人して、軍たび〱に及び、同き十一年秋、織田上總介殿、將軍義昭に賴れ玉ひ、都に攻上るとて加勢の事を望まる、德川殿御家人等が手の兵、一々にすぐり出し、信一に大將をぞ給りける、九月十一日、信一、織田殿の御陣に馳參る、此時、信長は近江の佐々木義賢入道承禎が、箕作の城せめあぐみて、是程の小城をせめて、日を費さん事、いはれなし、只都にのぼれとて、既に搦手の寄手引返さんとし給ひし所に、信一其勢一千人、大手の城戶に押寄せ、息をもくれす攻破りて、城中に亂れ入れば、敵はこたへず、搦手を打破り、ちり〱になつて落行けり、大久保彥左衞門物語に出
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松平(藤井)
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인물 松平信一 26織田信長 13徳川家康 6松平信吉 5松平利長 3豊臣秀吉 3徳川秀忠 3松平忠国 3六角義賢 2大久保忠教 2佐久間信盛 2松平忠晴 2松平長親 1足利義昭 1浅井政澄 1丹羽長秀 1織田信包 1松平忠吉(桜井) 1小出吉英 1松平信久 1松平信之 1松平志摩守(忠国男) 1松平忠昭(藤井) 1
지명 近江箕作城 7京都 3摂津国大坂 3関東 2常陸江戸崎城 2常陸土浦城 2三河藤井城 1駿河国 1三河国 1三河安祥城 1三河国長沢 1近江国 1近江国愛知川 1近江観音寺城 1美濃国 1尾張国 1下総国布川 1常陸国筑波 1美濃国関ヶ原 1常陸国 1出羽国 1常陸水戸城 1丹波国篠山 1常陸府中城 1
按するに安土日記に、九月十一日、信長愛智川の邊に陣し、佐々木が觀音寺箕作二つの城へ押寄て、佐久間淺井木下丹羽して、箕作を攻めしに、申の刻より夜に入て、攻落すと、しるして、信一が事をのせず、信長記是に同し、家忠日記增補に、信長佐久間右衞門尉を使にて、信一に先陣の事を仰ける、信一忽に外城を破る、信長の勢つゞきて攻入て、第二の城攻るとて、手負死人おひたゝしく、進み得ず、木下藤吉秀吉、夜に入り本城に攻め入る、時に信一先陣の由を高らかに名乘たり、明る十三日、信長信一は膽に毛おひたる男かなと、譽たまひて、着たまひたる革の道服ぬきて賜ひぬ、信一が家紋葵なれども、德川殿に同じからん事を憚りて、かたばみを紋とせしが、これより桐をも紋とす、彼道服に有し紋なればなりと云云、按ずるに安土記に、信長の手より箕作をせめ落しゝと書きしは、我家の功にせんとて、しるす成へし、增補の說の如くなれば、城をば秀吉の陷したるにて、信一が功にあらず、大久保其時の人にて記せし記なれば、今は其記に從てしるす、又此時信長德川殿よりの御加勢多からざるを悅はず、また信一が小男なるを笑ひ玉ひしかば、信一是を聞て、此城攻おとさずんば、生て歸らじといひて、忽に攻め落しゝとも申也、織田家譜に、箕作おとしゝを、勘四郞信吉としるせり、誤れるにや、信吉は信一が子なり、
斯て箕作落しかば、十八箇所の城々、次第に落て、信長都に入たまひしに、織田上野介の雜人と、信一が下部と、古き烏帽子一つをばいあひて、爭論に及ひ、美濃尾張の軍勢、一つに成て、信一が陣に押寄す、德川家の人々是を見て、此上は力なし、尋常に戰て打死せよやとて、弓鐵砲鎗長刀を揃へて、寄來る敵を待つ、其勢ひに恐れて、敢て近つく者なし、織田殿此由聞召し、にくいやつばらが狼藉かな、家康の加勢、乞ひて、たまはつたる御勢と、同士軍する事やある、信長が軍兵、一人成とも、信一が陣に向て、矢はけ、打物の鞘はづしたらんもの、一々に首をはねよと、以の外に怒り給へば、寄手ちり〱に成て迯失ぬ、信長いそぎ信一を召て、いかに信一、今度箕作の城攻おとし、又今日の狼籍を鎭められしこと、類ひ希なる振舞ひかな、せいは小いさき人なれど、膽こそ大きかりけれと、感し玉ふ事斜ならず、頓て暇を給て、本國にぞ歸されたる、元龜元年の秋、再ひ織田の加勢して高名し、德川殿關東に移り給ひて、上野國布川1の地をぞ領しける、五千石、一說に筑波とも云、關が原の戰には、關東に留り、江戶崎の城の守りとなる、明れば慶長六年二月、常陸國土浦の城を給ひ、此事不審、七年の事にあらずや伊豆守に任し、同七年五月、常陸の佐竹、出羽に移されて、水戶の城を守る事、此年七月下旬より、午年正月に至りけり、信一既に卒して後、信一が卒せし年月いまだ知らす、城主譜等に常陸の土浦の城に卒と見ゆ、世に傳ふる所の松平系圖には、丹波の笹山に移るといふ、是はあやまれるか、安房守信吉家を繼く、實は櫻井の與二郞忠吉が嫡子なり、信一男子なければ、おのが娘に配せて世嗣とし、勘四郞と名付たり、佐竹が國移されしに、常陸の府中の城を守り、また父に代て、江戶崎の城を守る、慶長八年叙爵し、信一卒て家を繼く、四万石大坂の兵起りしに、まづ和泉國岸和田の城に加勢し、小出大和守の居城なり、後大坂より召されて、今里の要害を守る、明る春に至ては、伏見の城に來り守る、再ひ兵起りてのち、飯盛の邊に陣をとる、兩御所のぼらせ玉ひしかば、大坂に馳向ひ、五月七日の戰に、首廿一切て獻る、元和三年、上野國高崎城に移る、五万石同五年、丹波國笹山城に移る、本領のまゝ同七年卒して、嫡子山城守忠國繼ぐ、忠國はしめ慶長十四年將軍家の御前にて元服し、御諱字賜る、父に繼し後、慶安二年七月四日、播摩國明石城を賜て移る、二万石を加へられ、七万石を領す、万治二年二月廿日、六十二歲にて卒す、嫡子伯耆守信久早世し、二男日向守信之父に繼ぐ、六万五千石、五千石をば弟志摩守にわかつ延寶七年六月二十六日、大和國郡山の城に移る、八万石
- 上野國布川 — 지면 그대로. 松平信一이 関東 이봉 때 받은 布川(5천 석)은 下総国 相馬郡 布川이다