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成田
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 成田氏長 23成田長泰 18豊臣秀吉 9北条氏政 6山中長俊 6浅野長政 5北条氏直 5上杉輝虎 4石田三成 4成田氏範 3藤原任隆 3徳川家康 3蒲生氏郷 3藤原道長 2成田顕泰 2成田左衛門尉(氏長弟) 2藤原助隆 1成田五郎 1別府小太郎 1太田資正 1成田土佐守(氏長弟) 1成田肥前守(氏長弟) 1成田家臣船橋内匠 1成田家臣坂巻靱負 1
지명 武蔵忍城 5関東 4武蔵皿尾城 3武蔵国 2奥州 2下野烏山城 2武蔵国幡羅郡 1相模国 1駿河国 1相模小田原城 1下野唐沢山城 1上野金山城 1常陸太田城 1武蔵河越城 1上野厩橋城 1下野宇都宮城 1武蔵岩槻城 1北陸道 1陸奥国会津 1下野国小山 1下野国百々塚 1下野大田原城 1摂津国大坂 1上野国 1
氏範が曾祖下總入道宗蓮が世に及ひ、當時の亂に乘して近隣を打靡け、崎玉郡忍の城を構へて移り住む、入道が子下總守長泰が時に至て、手に属する兵一千騎、上杉が東國を管領せし世には、東國一の大名にてぞありける、相摸の北條が起るに隨ひて上杉が家亡びぬ、長泰故の管領が跡を慕うて、上杉彈正大弼輝虎入道謙信に心合せて、北條を伐たんとせしに、永祿三年の春忽に謙信を恨むること出來て北條與みす、謙信長康不快出來し事世に普く知る所なれば爰に略す謙信大に怒て成田が城のほとり盃尾といふ所の古城を拵へ、軍勢を籠めて攻め戰ふ、長泰自ら向て其城せめ破つて捨つべしとて、子息氏長と共に盃尾の城に押寄す、太田美濃守資正上杉に力を合せて後卷す、長泰思ひも寄らず前後の敵を防きかね、散々に打成されて引返す、長泰年頃弓矢を取て遂に不覺の名を取らず、是程の小城一つ攻め厭んで、負軍しつる事こそ安からね、如何にもして此城攻め落し、會稽の耻を雪がばやと思ひしかど、この城又さうなく落しつべうも覺えず、斯て長泰年老ゆるに隨ひ、其振舞ひ昔にも似ず、最愛の妾に深く愛でゝ、城の外に家作し彼女を居ゑ置き、常には其所に行き通ひて酒呑み遊び、子息氏長が年既に盛に過きぬれど、家讓らんともせず、一族郞從の爲にも疏まれ、父子の間も心よからず、かくては此家亡びん事も遠さにあらじとて、一族郞從相議して同き九年の秋彼女が許に行きし隙を伺ひ、氏長を主に取立て、城の木戶差固めて歸り入る事を許さず、長泰さる古兵にて城より外に流れ出る水の樋の中を潜りて本城に歸り入り、氏長を捕へて誅せんとす、一族も郞從も斯迄は計ひしかど、流石年頃の主にてはあり、さうなく長泰を殺すにも及ばず、只あきれにぞあきれ居たる、斯る所に長泰が師資の僧、立圓寺といへる寺に住せしが、馳せ來てさま〱訓し、父子一族の間を和ぐ、長泰これに心とけて我が齢既に傾きたり、いかに子孫の事思はざらん、只如何にもして一たび盃尾の城を攻め落し、家の耻雪いで後、子孫に讓り與へんと思ひしに、かゝる不思議の事出來候こそ、返す〱も口惜けれ、親しかるべき一族累代の家人等に、かく迄に疏まれて我この城に在らんこと本意にあらず、よし〱さらば御僧の敎化に任せ參らすべきにて候とて、頓て其寺に引き籠りぬ、北條左京大夫氏政この由を傳へ聞て、長泰が許に使立てゝ氏長が所爲無道といひつべし、氏政頓て東國の軍勢を催し、彼の逆徒一々に打滅し長泰を返し入れ參らすべしとぞ云はせける、長泰この由を打聞き、いや〱父子の間よからずとて、我子人に失はせんこと無慚といふべし、さらば又我今まで領せし所も、多くは北條殿にめさるべし、累代相傳の地、他人の手に渡さんより、憎しと思ふ子に傳へたらんは、一族郞從等が爲にも、然るべきなりと思惟して、忽に髮剃らせ黑衣うち着て蘆伯入道と名のり、彼の使者に對面し仰せ謹て承りぬ、去ながら長泰齡いたく傾きて候へば、子息に家の事讓りて既に入道の身と罷成り候ひぬ、向後に於ては氏長が事、賴み參らする所にて候とぞ答へける、氏政も案に相違して、軍を出さるゝにも及ばず、其後同き十二年氏長北條の催促に隨ひ、駿河の國に向ひし時、父子中直りし入道城中に入て跡の事を計らふ、天正十八年の春豐臣關白、北條を討たるべしと聞ゆ、下總守氏長おのが城には軍兵四百餘騎を籠めて、我身は舍弟同く左衞門尉同く土佐守同く肥前守を初として、一族郞從五百餘騎を引具し、小田原の城にぞ籠りける、石田治部少輔三成を軍奉行として佐竹宇都宮の軍勢、忍の城に押寄す、抑もこの忍の城と申すは關東七箇の名城にて、佐野の唐澤新田の金山佐竹の太田此三つは山城なり武藏の忍の城河越上野の厩橋下野の宇都宮此四つは平城なり此七城は終に攻落されし事なしといふ夏目が記に出たり城中に籠る所は船橋內匠坂卷靱負などゝいふ東國に名を得し剛の者、士卒を下知して防き戰ふ、寄手常にかけ破られ斯ては此城いつ落つべしとも見えず、此時三成水攻にせんと謀て攻め損したりといふなり淺野彈正少弼長政、岩槻の城を攻め下し、關白の仰せ承て寄手の陣に馳せ加る、長政頓て謀を運らして城中に返り忠の者出來て、裏切せんと牒し合す、長政悅ふ事斜ならず、石田に此事議定して味方を勸め押寄せたり、長政が智略にて此城をも攻め落させん事、安からぬ事なりと思ひければ、三成佐竹宇都宮が勢を制して戰はず、長政一勢散々に攻め戰ひ一方を打破る、されども續く味方なく手の者百餘人うたせて、終に空しく引き返す、爰に下總守氏長は弓馬の藝に達しけるのみにあらず、和歌の道にも深くすきてけり、山中山城守長俊足利殿の御時より右筆の人なりけり同じ道にすきしかば、遙に消息を通して相語ふこと年を經ぬ、關白かねて此事を知召し、長俊を御陣に召され城中の兵今は降人に成て參らんと思ふ者ありぬと覺ゆ、汝文かきて成田が許に贈り、かたらひて見よと仰せければ、長俊畏て承り文かいて送る、成田大に悅て味方に參るべき由をぞ答へける、關白この文を御覽して德川殿に參らせられ、城中に籠る所の宗徒の輩、既にかくの如し、氏政氏直今は誰を賴みてか軍をばしつべき、この文氏直の許に送らせ給ふべしとぞ仰せける、氏直朝臣は德川殿の婿君たる依にて也氏政父子かの文を見給ひて頓て成田を召す、身のいたはりありとて參らず、使三度に及て後、汝を召すこと餘の義にあらず、敵の方より告け申す旨あれば、召し尋ねられんが爲なり、如何なるいたはりありてか參らざる、早く醫療を加ふべき者なりとて、此度は醫師安栖を添へられける、事既に顯れぬと思ひしかば、成田使者に對面して仰の旨承りぬ、抑も氏長和歌の友として、年ころ關白の御家人山中山城守長俊と音信を通ず、此事かねて屋形にも知召されて候ひき、然るに此度長俊が許より消息を通して、味方の城廓或は落ち或は降るもの七八箇所、氏長が兵の守る所も多勢の爲に攻められて、今は賴み少う見え侍りぬと告く、氏長こゝに召具して候ふ家子郞從等これを聞て、父母妻子が悉に誅せられん事を歎き悲むが故に、長俊が執し申に依て、彼等が首つがれん事を賴み思ふの旨、返答既に訖んぬ、若し此事をや聞召されて候らんと、有の儘にこそ陳じけれ、此上はとて成田が陣に堀ほり回し柵むすうで、軍兵七八千が程附けて山上鄕右衞門尉に守らせらる、かくて忍の城の寄手攻あぐみぬと聞えて、北陸道より攻め下れる大將上杉前田、寄手に馳せ加らんとす、主の成田既に降りぬと聞て、城中の兵も降人になつて出づ、程なく北條滅びしかば成田も希有に命いきて城中を出でぬ、仕出したる事もなければ關白の御恩に預るべしとも見えず、北條が國々德川殿の御領となつてければ、おのづから累代の所領をば失ひけり、