朝鮮南大門の軍は文祿二年正月二十六日の事なり。明の援兵鴨綠江を涉り押來る。小西行長叶はず引退く時に、小早川隆景は開城府に止り一軍せんと待ちかけたり。浮田秀家使を以て、疾く都城に引返して一所に軍有るべし、と申されしか共、隆景、吾日本を打立ちしより異國に討死せんと思ひ設けたり。年老い候ひぬ。今生の思ひ出に異國の大軍に駈け合せ、大國の耳目を驚かす軍して屍を戰場に晒さんと存ずる所なり、とて引取らん氣色無かりければ、又大谷吉隆を遣して、誠に雙なき志、古の名將も是には過ぎじ。然ればとて二萬許の兵にて大軍に取卷かれ、空しく討死有らん事口惜く候。只疾く都城に入りて日本の軍の先陣せられ候へ、と有りしかば、隆景、さらば日本の先陣は隆景仕らうずるにて候。人に先陣をば駈けさせじ、とて黑田長政、久留米秀包打連て都城に歸られしが、南大門の外碧蹄館に陣せられけり。二十六日の曙に李如松が軍押來る。旌旗を立て連ね何十萬とも測るべからず。秀家を始として大軍に野合の合戰危からん。都城に楯籠らん、と言はれし時、立花宗茂目を見出し刀の柄に手を懸け、敵怖ければとて逃籠る樣や候。只馳合せ蹴散して候はん物を、と勇まれしかば、然らば誰か先陣せん、と言ふに、隆景吾先陣せんと兼て言ひつる事よ。誰人にても有れ思ひも寄ず、とて、頓て陣を進めらる。士大將粟屋四郞兵衞、村上彈正、野島掃部三千許喚き叫んで相戰ふ。立花宗茂、久留米秀包、毛利元康六千餘り奇兵となり、右の方三町餘に陣せしが、橫樣に懸る。隆景旗本一萬餘を率して一文字に切つて掛り、忽ち敵を討破り、首數多得られけり。宗茂取つたる首二つ鞍の四方手に附け、隆景の方に來られしを見て、取敢ず、見事に候、と言はれしかば、宗茂每も仕るにて候、と答へられけり。此軍未だ始らざりし時、黑田長政唯一騎步の士六七人召具し、隆景の旗本に來る。隆景、よくこそ來られ候へ。先陣の粟屋に力を添へ給へ、と言はれしに、長政悅びの色面に顯れて、承り候、とて先陣に向はれけり。殊に寒風烈しう吹きたりければ、長政大綿帽子を被られしが、先陣に行きて帽子を脫いで、世に聞えける水牛の冑の緒を締られけり。隆景の軍兵ども是を見て、今日の軍に勝ちたり、と勇みけるとかや。長政今年二十五才、武勇を斯く人に信ぜらるゝ事並々には非ざりけり。
○朝鮮南大門合戰附後向の備の事
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或說に、漢南にて明の援兵大軍なりと聞えしかば、諸將評定して吉川元春を先陣とす。元春勇猛の名高き故なり。元春軍兵を後面にして敵を見せず。敵近くなりける時、士大將某燒飯を十許持ち來りて、時宜しく候。きこしめされ候へ、と言ふ。元春是を五つ食し、士大將二つ食して、殘りを近習の者に與へたれども得食ずとかや。敵合二町許に成りける時、元春下知して一同に向き直り、透さず突き掛り敵を追崩して、頓て引取られけりと言へり。目に餘る大軍に逢ひて士卒氣を奪れ見崩れす可きか、と元春思ひて斯くせられたりとなり。是誠に味方の氣を挫かしめざる將略にして、元春は關西無雙の勇將たる事誰か非間すべき。然れども元春は朝鮮陣より前に死去有りしかば、隆景斯くせられたりしを傳へ誤りたらんも知るべからず。