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○關白秀次公生害の事附吉田修理が事

卷之十一 第11話 · 段落 3 · NDL 1078984 194コマ L

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秀吉秀次を養ひて關白を讓り、夫より太閤と申す。文祿二年秀賴誕生あり。秀次善からぬ事ども種々有りければ、文祿四年七月八日三成太閤の前に出でて、關白の謀叛旣に顯れし、とて證を正したる書を見せ申せば、太閤怒りて、宮部善祥坊、堀尾吉晴等に下知して、疾く伏見に來らるるか、一先高野に退き申開き有るか。二つの中よ、と云送られしかば、秀次畏り、承り候、とて其後粟野木工頭秀用、白江備後守成定、熊谷大膳亮直澄三人に、此事如何有るべき、と問はるゝに、白江イ栗聞きも敢ず、殿下只今聚樂を出給はん事然るべからず候。此三人の中一人伏見へ參りて犯さぬ罪を申開くべし。叶はで討手來らば防矢射て思召し定められん外他有らんや、と申す。熊谷、此謀尤さる事なれども、帝都の騷ぎとならん事其恐なきに非ず。又謀叛人と言はれんも口惜かるべし。父子の禮儀なれば都を出でて東坂本に赴き、讒者を糺されん事を申すべし。御許され無くば唐崎濱に打出て勝負を決するの外道なし、とぞ申ける。粟野、只今危きに逼りて宥を請ふとも聞入れられじ。迚も遁れぬ所なれば、今夜伏見に押寄せて屍を城に晒すべし。婦人の縊れて死するが加く1ならんは口惜しき事なり、と申しけれども、秀次皆用ひずして高野山に赴きけるが、
  1. 誤植 — 底本「加」。文脈から「如」の誤植か。
一說に、吉田修理此時申しけるは、謀叛眞實に御座しまさば人數一萬我に附けられ候へ。今夜伏見に夜討して只一時に城を乘破るべし、と言ひけれども、聞入れざりしとなり。修理後に越前秀康卿に仕へ、大坂陣に忠直の供して先陣たり。五月五日天王寺口の御先手加賀利常に命ぜられしかば、忠直甚忿られし時、本多伊豆守、然らば明日眞先駈けて加賀の軍兵を踏越え、思ふ儘なる軍せん。斯る事は吉田修理能く決斷する者にて候、とて呼出す。修理聞きも敢ず、夜も短く候。早支度して打立つべし。人々續かれよ、と言捨てて、己が陣所に歸るや否やひた〱と物具し、先駈して加賀の軍兵の押行く所に修理馬を乘寄せ、今度の命には岡山表は加賀、天王寺表は越前の三河守先陣を承りたり。各は知らざるや、と云ひも敢ず、眞一文字に押破り駈拔けたれば、越前の軍兵押續く。修理は今日必死と思ひ定めければ、本多忠朝の陣より鐵炮を打懸ると等しく、死ねや〱、と聲々に呼はり、眞田が陣を切崩し、北ぐる敵を追つかけ、天滿川の深みに馬を乘入れ溺死しけるとぞ。