秀吉秀次を養ひて關白を讓り、夫より太閤と申す。文祿二年秀賴誕生あり。秀次善からぬ事ども種々有りければ、文祿四年七月八日三成太閤の前に出でて、關白の謀叛旣に顯れし、とて證を正したる書を見せ申せば、太閤怒りて、宮部善祥坊、堀尾吉晴等に下知して、疾く伏見に來らるるか、一先高野に退き申開き有るか。二つの中よ、と云送られしかば、秀次畏り、承り候、とて其後粟野木工頭秀用、白江備後守成定、熊谷大膳亮直澄三人に、此事如何有るべき、と問はるゝに、白江イ栗聞きも敢ず、殿下只今聚樂を出給はん事然るべからず候。此三人の中一人伏見へ參りて犯さぬ罪を申開くべし。叶はで討手來らば防矢射て思召し定められん外他有らんや、と申す。熊谷、此謀尤さる事なれども、帝都の騷ぎとならん事其恐なきに非ず。又謀叛人と言はれんも口惜かるべし。父子の禮儀なれば都を出でて東坂本に赴き、讒者を糺されん事を申すべし。御許され無くば唐崎濱に打出て勝負を決するの外道なし、とぞ申ける。粟野、只今危きに逼りて宥を請ふとも聞入れられじ。迚も遁れぬ所なれば、今夜伏見に押寄せて屍を城に晒すべし。婦人の縊れて死するが加く1ならんは口惜しき事なり、と申しけれども、秀次皆用ひずして高野山に赴きけるが、
- 誤植が加く — 底本「加」。文脈から「如」の誤植か。