大坂和平破れて後、秀賴軍評定の時、第一坐に長曾我部、次に眞田、其次に毛利豐前守列坐せり。秀賴、大野修理を以て、今度の合戰各所存を問はれけり。眞田、先長曾我部に申され候へ、と辭し申しければ、長曾我部聞きて、眞田殿ならで斯る圖を申出さるべき人有りとも思はれず。先づ申され候へ、と答へけり。眞田、さらば申して見ん。去年の軍は城固く兵粮も又多かりき。日數を過ぎば必ず西國の內に心を寄する人も有るべきか。寄手の中に心替も有るべしと何れも存寄りたる處に、思の外に和平に及んで惣堀は埋められぬ。今度は守り遂ぐべき道有るべしとも存ぜず。只打出でて軍する程ならば、君御出馬候ひて伏見の城を攻落し、卽ち御上洛候て洛外をば燒拂ひ、宇治勢田の橋を引落し、所々の要害を固く守り、先洛中の政を御沙汰有るべし。其後勢によりて合戰の謀候べし。祝は申納めぬ。若御運盡きさせ御座しまし候とも、御上洛にて一度天下の主と號し奉り、洛中の御政務を執行はれんに於ては、後代の名聞是には過ぎ候まじ、と言ひしに、長曾我部を始として皆然るべしと同心しけるに、修理、秀賴公の御旗を出されん事、輕々しきに似たり、とて肯はぬ色を見て、修理が母を人質に出し置きぬ。如何なる所存にやと人々疑ひて、議決せずして止みけり。斯る所に修理が母の人質に出し置きたるも返し賜はりぬ。旣に關東の人數伏見に著くと聞えしかば、秀賴又諸大將を集めて再び軍の評定に及びけるに、長曾我部また最前の如く眞田に讓りければ、眞田、駿河大御所の軍立常に早りたると承り候に、少しも違はず覺え候。其故は、昨今伏見へ著陣して軍兵の疲をも休めず。早や茶臼山に押寄すべきと申す沙汰は、早り過ぎたるに候はずや。伏見より大和路を押さば行程十三里なり。彌疲れ候べし。明夜は軍兵如何に存ずるとも、冑を枕として一睡せぬ事や候べき。一夜討すべき圖に中りたると存候。左衞門佐罷向つて一擧に勝負を決すべし、と申しければ、後藤又兵衞、如何にも此謀然るべう存候。されども眞田殿をもて夜討の大將とせんに、萬に一も討死有らん時人々力を失ひ候なん。今度國々の諸浪人馳集る事、偏に眞田殿一人を目當に仕候。夜討をば斯く申す又兵衞罷向ひ候はん、と言へば、眞田、兎角我罷向ふべし、といふ。後藤は有無に、後日の合戰大事なれば、眞田殿殘り止られよ、と爭論して、終に一決せで止みけるとなり。