池田の家にて政を執り、四海に譽高き熊澤次郞八伯繼了介は、本姓野尻なり。加藤嘉明の士野尻藤兵衞一利が子にて、外大父熊澤半右衞門守久養うて嗣となす。守久初は喜三郞といふ。喜三郞父を平三郞とて尾張の人なり。東照宮に仕へ奉り、三形原にて討死しけり。守久其後福島正則に仕へ、正則安藝備後を削られ、信州川中島に流罪の時、正則の江戶の屋敷を圍みて、若し仰を背かば忽ち討滅さん、となり。正則の士大方出奔しけるが、士只七人殘り留りし中に、半右衞門も留れり。正則江戶を出て川中島に赴く時、途にて殺さるべし、と云ひ振らす。守久節を守りて附從ひ信州に參りければ、正則日比寵愛の淺かりし事を悔まれぬ。後水戶の威公に仕へけり。一利は後鍋島に仕へて、島原の城攻に武功あり。延寶八年八月二十三日備前岡山に卒し、蕃山に葬りぬ。次郞八、寬永十一年十六歲にて備前に來り、芳烈公に仕ふ。十三年島原一揆の亂起りし時、公江戶に御座しまし、仰を奉りて岡山に歸らせ給ふ。此は一揆猶落城せずば、師を出されんが爲なり。此時次郞八未だ元服せざりし故、江戶に留置かれしが、自ら元服して密に岡山に歸りたり。十五年岡山を去りて近江の桐原に隱れ居たり。二十四の歲、高島郡小川村に往きて中江惟命を師とし、道を問ふ。歸りて又高島にゆく。其時父野尻氏仕へを求め江戶に赴く。次郞八に母妹を添へて、東近江の人遠き所に殘し留めたりしに、家甚だ貧しくて、江州の賤しき百姓の食するゆりのこ雜炊を飯とし、糠を食して魚肉酒茶の味を知らず。やう〱帋子を著て寒を防ぐ事五年、相識る人、母妹の在りて餓死せん事を憐ぶばかりなり。中江、王陽明の書を讀みて、良智の旨を次郞八に語り示す。芳烈公伯繼が王佐の才有る事を知召し、京極主膳に就きて、復來り仕へなんや、と度々問はせ給ひければ、正保二年再び備前に參りて仕へけり。祿三千石を賜はり政を執りたり。和氣郡八塔寺は、備前、美作、播磨、犬牙の如く入交りたる地にて、次郞八請取口とす。和氣郡の中便宜の地に因りて田を墾き、士數十人を土著とす。此時伯繼を助右衞門と稱しけり。公の參勤に從ひて江戶に往く事度々に及べり。世に名譽高く其道を慕ふ人多し。紀伊大納言賴宣卿、松平伊豆守信綱、板倉周防守重宗、久世大和守廣之、板倉內膳正重矩、松平日向守信之、堀田筑前守正俊、其餘の大名數を知らず。大猷院殿其人となりを深く信じ給ひ、召して尋ね問るべき處に、慶安四年かくれさせ給ひて謁見し奉らず。承應三年備前大に水出で、明曆元年飢饉の災あり。次郞八日夜國中を巡り撫育に心を盡す。伯繼日比儉にして、家中婢女寡く營む事少し。唯客を愛して、組の士朝夕となく來りて相語る。伯繼水理を論ずる事妙を得、國中水を通し沼を作り、旱魃の防をなすに、皆馬上より打詠めて其利害を定め論ずるに、數十年の後其言皆中らざるは無しといへり。明曆二年、和氣郡木谷の狩に山より倒れ落ち、此より脚を惱めり。斯くて和氣郡寺口村は其祿地なれば、蕃山と名を更めて世を遯るゝ志あり。
○熊澤了介の略傳
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筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり
この春は芳野の山の山もりとなりてこそしれ花のこころをと詠めるは芳野にての事なり。
又山城の鹿背山に引籠り、又播磨の赤石に移り居る。延寶七年六十一歲にして、大和の矢田山に隱れけり。赤石は松平日向守信之の領地たるが、日向守領地を大和の郡山に移す故なり。貞享四年八月、常憲院殿の仰により下總の古河に行く。日向守領地を古河に移す故なり。日向守深く伯繼を尊信せられたり。同年の冬封事を江戶に奉り、政事を更正すべき旨を申すにより、大に旨に忤ふ事ありて、永く閉籠置くべき由仰せ出されけり。此後人の來て物語するに、もし國政の事に及べば、傍なる笙を執り吹きて一事も言ふ事なし。元祿四年八月十七日古河の城賴政廓に病死し、城下の大堤村鮭延寺に葬りぬ。歲七十三なり。伯繼の學朱子王子によらず。別に一種の學を成すと言へ共、文學に短にして、政事の才其長ぜる處自著せし書に見えたれば、爰に詳にせず。