藩翰譜本文データベース

家一覧 › 第一 › f005

保科

第一 · 段落 4 · 780520 17コマ Lから

人物地名官職家日付索引一覧
この家によく出る人物・地名

人物 21 13 9 9 8 5 5 4 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1

地名 5 4 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

肥後守源正光は、信濃國の源氏、井上掃部助賴季が末葉、彈正忠正直か男なり、正直が祖父、高井郡の住人、保科筑前守正則、初彈正忠父は伊那郡の住人彈正忠正俊、甲斐の武田大膳大夫入道信玄、當國を幷せしより、彼家の被官と成て、一生の高名凡三十七度、文祿二年に至て、年八十三歲にて卒す、世に云、鎗彈正是なり、正俊か事、甲陽軍鑑等にみえたり、其子彈正忠正直、初め越前守とぞ申ける、天正十年の春、織田三位中將信忠卿、武田を亡さんとて、信濃國に發向あり、正直仁科五郞信盛と、勝賴の弟伊那の郡高遠の城にこもる、信忠押寄て攻めたまひ、仁科既に討れしかば、正直叶はで城を出で、東をさして落去りぬ、今年六月織田殿父子失せ給ひて、甲斐信濃上野の國々再び亂る、正直北條左京大夫氏直の案内者して、信濃の國に打入て、高遠の城に歸り入、德川殿も彼國に御勢を向けられ、甲斐の國府に打入て北條と戰ひ玉ひし所に、北條の軍、終に利なく、彼國々の侍共、盡く德川殿に從ふ、正直も酒井左衞門尉忠次に就きて、御方に參りしかば、御書賜て、本領を安堵す、此時正直越前守同國小笠原右近大夫貞慶が、德川殿たのみ奉て、累代の本領、深志の城に入ながら心變りし、北條に組みして、鹽尻に陣取しに、正直おしよせ戰て、首あまた切て參らせ、御書賜て、其功を賞せられ、御刀添て下し玉ふ、創業記に出づ○家忠日記には、天正十三年十二月三日小笠原の貞慶三千人をひきゐて高遠の城をせむ、正直防き戰て、勝事を得たり、御書幷に御刀を給ふ、其御書に、十二月十四日彈正殿へと被遊しといふ、然れば小笠原はしめ北條にくみせし時の事にはあらず、此後貞慶秀吉朝臣にくみせし時の事なり、兩說同しからず、但し正直兩度貞慶と戰ひしや、また彈正忠へと被遊しならば、後の軍は父の彈正忠正俊に給ひしにや、同き十二年九月、正直仰を承て、御方の人々と、木曾の郡妻籠の城をせむ、秀吉後卷せよとて、多勢を向らると聞えしかば、御方は引て歸らんとす、敵跡を慕ひて追來る、正直後陣に下つて敵の勢を追はらひ、難なく引てぞ歸りける、十三年閏八月眞田が城をせむ、御方利なかりしによつて、正直も引かへして、おのが城にかへる、德川殿關東に移り玉ひし時、下總國多古の地、一万石賜て、慶長六年歲六十歲にして卒しけり、按ずるに、家忠日記に關東へ移り玉ふ時、保科甚四郞正光後に肥後守と云、下總の內にて一万石を給ふ、と記す、誤れるに似たり、此時正直存生なり、初め正直長子正光、童名甚五郞、二男正重、靱負設けて妻を失ひしかば、德川殿異父同母の御妹を賜て、彼妻となされ、久松佐渡守の長女なり、初松平與八郞忠正に嫁して、內膳正家廣をもうけ玉ひ、忠正死して、忠正の弟與二郞忠吉の妻となり、安房守信吉左馬允忠賴をもうけらる、忠吉もまた死ぬれば、保科が許にゆきたまひしなり男子二人、女子四人を設く、これ皆德川殿の御外甥の御外姪にぞありける、系圖に詳なり長子なれば正光家を繼、從五位下に叙し、肥後守に任ず、關が原の戰には遠江國濱松の城を守り堀尾信濃守忠氏が城なり、軍散して後越前國北庄の城を守る、靑木紀伊守滅ひし故なり、再ひ高遠の城を賜はりて移れり、三万石、○按ずるに、城主譜に慶長五年としるす、諸傳記には此年賜りし事見えず、高遠城は京極修理大夫兼領せし所なり、修理大夫此年丹後を賜りて移れる上は、正光此時たまはりし事疑ふべからず、大坂の兵起りしには、初に山城國淀を守り、後に大坂に來て城を攻む、再ひ兵起りし時、大御所に隨ひ軍し、首十四切て獻る、正光嗣なかりしかば、幸松丸殿を養君とし參らせたり、台德院殿大相國第三の御子、御母はお靜の御方淨光院殿と申しゝ御事なり、幸松丸殿生れさせたまひて、武田万千代殿御母見性院殿とりて養ひ給ひしを、正光また養ひ參らせしと聞えき、正光德川殿の實の御外甥にあらねど、御妹の子の列なれば、御ゆかりなきにあらざりき、正光卒しぬれば、卒せし年月日未だ詳にせず、幸松丸殿其家を繼、元服し玉びて、從四位下肥後守正之朝臣とぞ申ける、寛永十一年侍從に任し、十三年七月廿一日出羽の國山形の城を賜る、二十万石
○正之朝臣に、山形の城賜りし前に、將軍家御鷹狩のために、目黑の邊にならせ給ひ御供四五人召倶せられ、成就院と聞えし寺に入らせ給ひしに、住持の僧頭巾引かづきて、垣ゆひて居たりけり、將軍家爰借りて休み候はんと仰せられしに、住持の僧、人々はいづくより參らせ玉ふと問へば、將軍家の御供の者なりと仰せらる、勞れ玉ふらん、心靜に御休みあれとて、請し入れ奉る、僧は內に入らんとせしを、御僧爰にまし〱て、御物語あれと仰ければ、打向ひうづくまり居る、客殿の壁に、盡く菊をいろどり繪かける事拙き工の繪かけるとも見えず將軍家、かゝる片田舍の御寺には、珍しき結搆に候如何なる檀那のわたり候と尋させ玉へば、のたまふやう、こゝは江戶遠きさかひなれば、然るべき檀那とてもなく、保科肥後守殿と申の御母うへが、常には祈禱の事など御賴みあれども、夫れも家まづしければ、布施のもの、ゆたかならずといへば、夫れは先づ能き事に候、其外にも有やらんと仰せらる、いや其外にあるは、皆數にもあらぬ人々なり、これにわたり玉ふ人々も、將軍の御家人と承れば、申も恐れなれどあの肥後守殿と申は、今の將軍家の正しき御弟と承るに、僅かの地領し、貧しくわたらせ給ふこそいたはしけれ、さらぬ賤しきものも、兄弟の親しみ深きは、人のならひなるに、如何なれば、能き人は、なさけなきものに候らんといひしに、御顏の色少し損じさせ給ひて、御供の人々を、きと御覽じて、いざ參らん、上樣もはや還御ならせたまふべき程なりとて、つと御出あれば、人々は御僧の情ゆゑ、足休みて候、又こそ參らめとて、うち出でぬ、暫しがほど過て、御供の人々むらがり來り、上樣はいづくへ、ならせられしぞと問ふに、住持の僧は、われ〱上樣の御事は知らぞ、御供の人とて、今まで是に御休みありきといふ、それこそ上樣にてあれと、云はれて驚き、あな悲しや、如何なる罪にや逢はんと、一月斗りが程は、門の外に足音高く人の過るにも、魂を消す、程なく正之朝臣へ多くの地附て、山形の城參らせられ、また目黑の寺にも、其事となく、地寄附せさせ玉ひしなり、此御世には、御鷹狩に事寄せられて、賤き者の憂ひ歎きの事ども、知召し、惠み施させ玉ふ事、いくらもありけりとて、其時御供に侍らひし人の子息の、云ひしを、よく承り侍りき、
正保元年正月十一日奧の會津に移り、廿三万石同き二年四月廿一日從四位下左少將慶安四年の夏、左大臣家大猷院殿の御事後皆是にならふかくれさせ玉ひし後、將軍家御幼稚の內、天下政務の事預り聞たまひき、是は左大臣家の御遺命とぞ聞えける、承應二年十月十三日、正四位下右中將、寛文九年四月廿七日致仕、同き十二年の十二月十七日、六十四歲にて卒せらる、嫡子長門守世を早う去り給へば、二男筑前守正經に家讓らる是より先き正經從四位下の侍從になる、
彈正忠源正貞は、正直が三男、德川殿の御外甥なり、元和元年の夏大坂の兵再ひ起りし時、本多出雲守忠朝、將軍家の先陣打て上るに、勢田の橋の邊に編笠目深く引かぶり、若黨一人雜人二人連て立ちたる男あり、忠朝を迎へて、笠ねき捨て、これは保科甚四郞正貞候、兄が勘氣かうむり、軍に具せず候ほどに、忍びて馳上て候、わどのゝ勢に加り、軍せばやと存じ待受て候といひしかば、いしくも上り給ふものかな、いざさせ玉へと、打つれて上り、足輕十人附たり、五月七日天王寺の合戰に、正貞眞先にすゝみ、小笠原信濃守に言葉をかはし、先を懸く、忽に大事の手三个所まで負て、馬より落つ、郞等かたきを追はらひ、正貞を肩に引かけ退かんとするに、又起直り、鎗取て、敵を突伏せ、おのれもまた鎗に貫かれて倒れたり、小笠原が軍兵あまた敵の陣にかけ入しに紛れて、正貞が首取るかたきもなく、終に郞等にたすけられて引返す、辛うじて命いきたり、其後御家人と成て、寛永七年五月十九日大番頭と成る、叙爵し、慶安元年六月廿日、大坂の城番を承り、所領倍し下さる、元一万石、二万石と成、上總の飯野と云所を領す、身既に老ぬれば、萬治三年の冬、請に依て番役ゆるされて歸る、明る寛文元年十一月朔日、七十四歲にて卒す、其子越前守正景、父に繼く、延寶五年七月八日、仰蒙りて大坂の城番となり、彈正忠に成る、其子兵部少輔正祥