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植村

第四中 · 段落 10 · 780521 34コマ Rから

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出羽守源家政は、累代の先祖より、德川譜代の御家人なり、家政が曾祖父出羽守某、或說に、家政が祖は、美濃國の住人土岐源三郞持益が後胤なり、明應の頃、持益遠江國上村といふ所に住して上村と名のる、其後三河國に移りて、出雲守殿に仕へ參らす持益が子植村新太郞氏義、氏義が子出羽守榮康といふ、是れ家政が曾祖なりといふ、按ずるに家政が曾祖出羽守が名詳ならず、法名をば榮安といふ、榮康とは法名の誤れるにや生年十六歲、いまだ新六郞と申せしとき、安祥二郞三郞殿、尾張の國にむかひ、森山に御陣を居ゑられ、安部彌七郞が爲に討れ玉ふ、折ふし、植村御側に侍らひしかば、彌七郞をば立所に誅し畢んぬ、御家人等、馳參て、唯あきれに呆れて居たり、植村人々に向ひ、御敵をば既に誅しぬ、此上は思ひ置く事なし、速に腹切て、冥途の御供仕るべしといふ、人々此由を聞て、主君の御敵たらんものを立所に討ちし事、其功いふに及ばず、是に侍ふ人々も、御陣にだに侍らば、誰も御身に劣る可らず、夫に御身一人が御側に侍らひし事、これ併ながら神明の冥助を蒙りし所なり、我々が宿運の程こそ拙けれ、されば今腹切て冥途の御供申さん事、誰かは又御身に劣るべき、去ながら御身は、腹をも切らば切れ、我等は必ず死すべき期、近き程にありなんと思ふ、今徒らに此所にて、腹きらんとも覺えずと答ふ、植村人々必ず死なん期とは、如何にといふ、其時人々抑我等が必ず死せん時、纔か十日をば過べからず、君かく成らせ玉ひぬと、敵の方に聞えなば、彈正忠信秀、軍勢をひきゐて、岡崎に參らんに、我等爰にて腹切らば、誰か若君の御爲に、矢の一筋もはか〲しくは、射出すべき、去れば我等が討死せん事此時にあらんと覺ゆ、同じく死せん命、遲速わづかに十日隔つべけれど、御身が爰にて腹切らんを强て止むるに及ばずといふ、植村つく〲と聞て、げに誤つて候ものかな、さらば人々と同く打死をばせんとて、岡崎に引返す、案の如く日十日を過ぎずして、織田信秀八千の勢を引率し、三河國に打入て大樹寺に陣を取る、此時內膳正信定、安祥殿に背きまゐらせ、上野の城に在て、勢をも出さず、まして昨日までも、御手に屬せし國人等は、一人も參らす、森山より引返してける譜代相傳の御家人等、わづか八百人、若君に暇申て、八百人を二手に分け、伊田のあなたに打て出づ、此人々の心のほど、神明も感じ玉ひけん、此所に立たせ玉ひし八幡宮の鳥居、敵の方に向て、六尺餘り自ら動き出けるこそ、不思議といふも餘りあれ、人々大に力を得て、寄來る敵を待つ、此處上は霜枯の野路遙かに、下は賤が田の面に通ふ道一すぢ信秀が軍勢、是も同く二手に押分て、上道下道、各四千人此方に向て寄せ來る、八幡の寶殿の方よりして、白羽の矢、雨の如くに降來り、敵の上に落かゝると見物の人の目には見えてけり、上に向ひし御方、野は廣し、敵は多し、其中に取籠められ、一人も殘らず討死す、植村下道より向て、眞先を懸く、御方わづかに四百人、四千の敵を打破りて、また上道に押向ふ、野路の敵、さん〱に亂れ立て、信秀辛き命、生て尾張國へ引返す、
これ伊田合戰なり、十倍の敵に勝ちし事だに例少し、まして大將のなき軍して幼なき君をたてし事、異國本朝、今に類ひ有べからす、詳なる事は、大久保が三河物語にみゆ、事永けれは畧しぬ、○按するに、此戰に植村打死せし由あるせる記あり、大にあやまりなり、
天文十四年三月、御家人蜂屋の何某、如何なる故にや、岡崎殿を一刀さしまゐらせ、刺損して逃げ出つ、御打物の鞘をはづてし追かけ玉ふに、彼刀御股に中りければ、走せ玉ふ事御心に叶はず、蜂屋既に迯のびぬと見えし所に、植村參りあひ、無手と組て、堀の中に落つ、松平藏人殿、これも御舘に參るとて、鼻つく計りに行逢ひ槍を取て堀に臨む、植村蜂屋上になり下になつて組合ふ、信孝そこはなせ植村と呼ぶ、新六下になりながら、大事の御敵に候、おのれ共に突かせ給へとて放たず、信孝同しく飛て下りて、蜂屋を突く植村首をば切てけり、
某が家に、阿部四郞兵衞入道が、岡崎殿御歸國の軍記あり、其初に、德川家の事記せし事共あり、文勢入道が記せし所に同しからねども、記する所悉く實記と見ゆ、其記に、岡崎殿をさし參らせし人は、蜂屋といふ其名は聞かずと記せり、世には片目八彌といひしものと傳ふ、誤れるにや、御家人に蜂屋といふ人多ければ、かくは云替しなるべし、此人目のすがめなりし故に、片目とは呼しなるべし、又其記の末に、今の出羽守語て曰く、安部を討しは、曾祖父、蜂屋を討しは、祖父にや候と、在りしに依て、某これを聞て、わどのが曾祖父の十六歲にして、安部をうち、其後妻迎へて蜂屋を打へき程の子設くべしや、年の程を數へて見玉ふべきものか、わどのゝ祖父は、德川殿に年一つ兄とやらん申されき、德川殿は岡崎殿十七歲の御時、設られし所なり、岡崎殿廿四歲の御時かくれさせ玉ひし者をといひしかば、出羽守も尤に候といひしなりと記せり、記にいふ所の、今の出羽守とは、後の家政の事なるへし、
舞をもふものゝ傳を見たりしに、其中に曰く幸若與大夫といふは、淸和源氏の末流岩松次郞經家が末孫なり、與大夫が父片目八彌といひし者は、安祥殿岡崎殿二代に仕へ奉り、度々の高名を顯し、近習に召仕る、心や狂じけん、岡崎殿うち參せんとして誅せられぬ、人其故を知らず、其子與大夫此年に生れて、むつきの中にて有り、岡崎どの不便にや思しけん、八彌は我に仕へて、終に二心なし、今何のゆゑ有てか、我を失はんとは思ふべき、狂氣の至り疑ふべからず、されば彼が年比の奉公にこたへて、其子が命、助くべし、只成人の後、法師になすべしと仰ありて、針崎の正滿寺に預らる、是妻帶の寺なるに依てなり、其後住持の僧、彼を僧にせん事不便なり、士になさゞらんには、何事かあるべきとて、幸若が弟子になして、舞まふ事を學ばしむ、德川殿の御時、針崎を始として、彼宗の寺院盡く叛き參らす、與大夫針崎にてひとゝなりしかば、其思これ深しといへども、寺を背き御方に參り、度々の戰忠をいたす、自餘の人ならんには、如何なる恩をもたうべけれど、八彌が子たる故に、其事もなし、大相國家、此由を知し召し、與大夫が子與三大夫をば、御咄の衆の末に召出され、舞ふ事をもゆるさせ玉ふべかりしに、程なくかくれさせ玉ひしかば、又其事も止みぬと云云、此事誠ならんには、八彌が孫は、舞々となつてありしにや、岡崎殿の御情、有難き御事にあらずや、
是等の外、其高名數を知らず、其後出羽守と申、天文廿一年三十三歲にして沓掛城に打死す、其子新六郞生年九歳にて、德川殿駿河國に渡らせ玉ふ御供し、弘治二年の春、御軍始ありし時、おのれもまた軍始して、一生の高名、數ふるに暇あらず、永祿四年の春、石が瀨の槍、同六年の冬、一向宗の亂に蜂屋半之允と、鎗を合せし事あり、御諱字給て家政と召され、其後出羽守と申て、寄騎の侍三十騎を附らる、家政酒井左衛門尉忠次、石川伯耆守數正、同日向守家成等と四人、當時國務の事を總べ司りしといふ、初め德川殿信長と御和睦の事なりて、初めて御見參ありし時に、家政御太刀の役に候す、織田殿其名を尋ねらる、出羽守家政と申す、是れ隱れなき勇士なりとて、盃を賜ひ、引出物せらる、信光の刀また武田大膳大夫入道信玄、天下武勇の士を評せられたりしに、此出羽守を以て大剛の兵とは稱しけり、又元龜年中、上杉謙信、德川殿に、使まゐらせられし時、家政にも書を送られき、其年三十七歲にて天正五年十一月に卒す、其子新六郞家次、同しく父の名を落さず、長湫の戰に高名しき、慶長四年十二月十日三十三歲にして死す、家次御勘氣蒙りし事ありて籠居す、榊原式部大輔康政が歎き申に依て、康政が所領上野國舘林の城の邊、大島といふ所にて、所領の地五百石を給ひ、終に此所に於て死すといふ、其子出羽守家政なり、慶長四年生年十一歲にして召され、同き十三年に叙爵し、志摩守に任ず、大坂御陣には、將軍家の御陣に隨ふ、御徒頭といふ、
一說に大坂の兵、再び起りし時は大御所の御供して徒衆の頭たり、五月七日敵悉く破れぬと聞召、茶磨山に向て、御馬を馳られしが、城の方より兵多く馳來る、あれは御方かと仰せられしに、御供の人々、其旗を見しらず、家政進み出て、それがし見て參るべしとて、同主膳に向ひ、さゝやく事終て馬を馳す、植村主膳、御馬に向ひ、あれは御方に候と申、汝何ゆゑにか敵にあらざる事を知れると仰らる、さん候、家政某に向ひ、間無下に近ければ、若し御敵ならんには、馳歸り申さんに、事猶急にして、御謀をめぐらされん程あるまじ、御方ならんには、我馬をめぐらして歸りなん、敵ならんには、駈け入て打死すべし、我が振舞を見て、速に其由を申せと申て候ひしが、馬を廻らし候程に、扨こそ御方とは存して候と申ければ、家政が謀、誠に勇々しかりけると、深く感じさせ給ひぬといふ、
或よき人の物語せられしは、植村の家は、君に仕へて、天の幸を得し事度々なり、先祖出羽守、二度迄御敵を打ち、後に此家政も不思議の事ありき、大相國家の御時、元和八年四月、日光山に御參り有て、歸らせ玉ふ時、下野國宇都宮の城を以て、御旅舘と定めらる、此城のぬし本多上野介正純が有樣あやしき事ありと告申す人ありて、夜更て密かに城を御出あつて、江戶の城さして歸らせ玉ふ、外人夢にも知らず、此夜家政、假の御所に伺候す、土井大炊頭利勝怪み、何事にか、夜更て參りしにやと問ふ、家政されば如何なる事にや、頻りに胸騒きして、寐る事を得ず、あまりに怪しう覺えて、伺候に參りぬといひしかば、利勝悅び、家政が耳に付て、しか〱の事あつて、唯今の程、この御所をば御立あるべきなりと知らせしかば、家政御供にぞ參りける、