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秋田

第八下 · 段落 8 · 780524 16コマ Rから

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地名 6 3 3 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

其系圖に曰く、先祖は攝津國安倍野伊駒に住す、年代久遠にして、詳なる事を知らず、中頃安倍貞任に至る、其子孫東夷に在ること三百餘年、其名も定かならずと云々、會津四家合考を見るに、此家の事を記す事、やゝ詳なるに似たり、是れ必據所あるべし、只正史の載する所にも、系圖の記す所にも、異なる事共ありて、疑ひ少からず、今此書は、悉く疑を闕くといへども、合考の說を取て註する事は、本朝百王の寶祚、絕え給はぬ御事をだに、異朝には、あり難き事に云ひも傳ふ、本朝は神國なり、天照大神の神孫、天日嗣絕え給はざらんこと、天壤と共に久しかるべき御事は、宜なり、神孫未だ此國を知し召さゞりしさきに、此國を知れる人の子孫、今の世に至て、其家を絕たず、郡邑をも知ると云ふ事は、猶他の國には、例あるまじき事にて、本朝の一奇事なれば、疑をば疑を傳へ、又今按を加へて、こゝに註しぬ、
神武天皇、初め天下を平げ給はんとて、大和國に入らんとし給ひし時、こゝに宇摩志摩治の命の臣に、安日長髓彥と云ふ兄弟の者、軍起し、膽駒の嶽に、防き戰ふこと十餘年、天皇終に打勝たせ給ひぬ、長髓彥は、天皇の御兄を討ちまゐらせし罪に因りて殺され、兄の安日は、東北に放たれて、津輕外が濱安東浦等に居て、子孫相續くと云々、日本書記を按ずるに、神日本磐余彥天皇、甲寅の年、自ら皇師を率ゐて、日向國を立て、東征し給はんとて、此年安藝國に到りて、乙卯年、吉備の國に入り戊午年、難波のみさきに、着かせ給ひ、膽駒の山を越て大倭國に入らんとし給ふに、長髓彥と云へる者、迎へて孔舍衛の坂に戰ふ、長髓はこれ邑の名にて、人の名とせるなり、天皇の御兄五瀨命、流れ矢に當て、かみざります、此年の冬、天皇自ら皇師を率ゐて、長髓彥を討たせ給ふ、初め櫛玉饒速日命、天より降りしを、長髓彥、誠の天神の御子と思ひ、君となし、己が妹三炊屋媛を參らせ、可美眞手の命を生めり、天皇も又天神の御子と、詔ありし事を疑び、皇師を防き戰ひし所なり饒速日命は、天皇の天孫にて、此國知し召さるべき事を、知るといへども、長髓彥が終に隨ひ參らすまじき事を知て、長髓彥を殺し、天皇に隨ひ參らせしかば、其正しき誠を褒めて、寵み給ひぬ、是れ物部氏の遠組なりといへり、然れば、長髓彥が君とせしは、饒速日命にて、可美眞手命は、饒速日の子なり、可美眞手、宇摩志摩治、共に同し、又長髓彥に、兄ありし事は、見えねども、古の事は、正史に泄るゝこと多ければ、傳ふる所、さもありなまし○人皇十代の帝、崇神天皇の御宇に當て、安倍河別命して、蝦夷を討たしめ給ふに、蝦夷の軍、强くして、官軍每度利を失ひしに、安日が遠孫に、安東と云ふ者、命に向ひ、我が祖此所に放されしより、永く邊裔の民となりぬ、あはれ此度御免をだに蒙らんには、命を捨てゝ、蝦夷を平げ侍りなんと、望みしかば、河別命、此由を天皇に奏し、安東に先陣を賜りしかば、大に戰て、勝つことを得たり、命かれが戰功を賞し、自らの姓を賜りしかは、是より始て安倍を以て、姓とせり、又先祖の名に因て、安日と書て安部とも讀めりと云々、按ずるに、崇神天皇の十年九月、使を四方に遣して、隨はぬ國を平けしめ給ふに、大彥命は北道に、武渟川別命は東道に、吉備津彥は西道に、丹波道主命は南に趣く、是れ本朝將軍の始なり、東を平げしは武渟川別命なり、安倍とは見えず、されど新撰姓氏錄を按ずるに、武渟川別命は、孝元天皇の皇子大彥命の子也、阿部朝臣も、阿閉の臣も、阿閉の失人臣も、阿部志斐臣も、皆大彥命より出たれば、阿部川別命とも云ひは傳ふべし、但し武渟川別命の後をば、竹田の臣と申す也○第十六代應神天皇の御宇、蝦夷又亂る、安東が後、致東と云ふ者、是を平ぐ、其勳賞に將軍の號を許されたり、日下將軍と名乘れり第六十六代一條院の御時、蝦夷又亂れしに、致東が後國東、軍兵を率ゐて、夷の地に押渡り、上道下道二手に分れて、攻め入り、終に其首領三四人を擒にして歸り、自らは薯蕷を食ひ、彼には鹿角を與へ、彼には黑き石を與へ、我は黑豆を食ふ、蝦夷大に恐て、悉くに隨ひぬ、國東が子穎良、穎良が子賴良、安東太郞と名乘て、陸奥出羽兩國の押領使となれり、國人は安倍の將軍と云ひけり、賴良あまたの子あり、いはゆる井殿の盲目、安東太郞良宗、厨川二郞貞任、鳥海三郞宗任、境講師官照、黑澤尻五郞正任、白鳥八郞行任等なり、七十代の帝後冷泉院の御時、賴良幷に子息等、再び朝家に背きしが故に、源賴義朝臣の爲に、討ち滅さる、貞任に二男一女あり、嫡子千代壽丸、十三歲にて、父と共に討たる、女子は、源義家朝臣に相倶して、義國を生めり、二男萬千代丸、僅に三歲になるを、めのと抱きて、津輕藤崎といふ處に、深く隱し、成長の後、高星と名乘る、其子堯恒、又安東太郞と名乘て、藤崎に住す、此より此家の嫡流、皆安東太郞を以て字とす、是れ先祖安東が名を、子孫の字とする所なりと云々、按ずるに、陸奧話記に、六箇郡の司安倍賴良は、忠良が子なり、祖父忠賴は、東夷の酋長と見えたり、穎良忠良と唱ふる所は、同じけれども、忠賴が事、合考に見えず、又義家朝臣の二男義國の母は、中宮亮有綱の娘と云ふ、貞任が娘の設けしと云ふこと、不審、これより後の事は、又下に註す、
實季六代の祖安東太郞庶季1、應永の頃、始て陸奧外が濱より打て出て、出羽國秋田の湊を打隨へ、自ら秋田城之介と名乘る、其子成季、其子惟季、其子昭季、其子定季、代々字は安東太郞秋田城之介と名乘る、定季男子二人あり、兄は友季、弟は愛季と名乘る、實季は、この愛季が男なりけり、
  1. — 底本のまま。「鹿季」の誤植とみられる
合考の說に、堯恒が末、安東太郞貞季が時、後鳥羽院の御宇、建久の頃、高麗國より、鷲羽多く献りし事あり、貞季勇士の譽あるに因て內裏に召され、かの羽二枚、檜扇に載て、下し給ふ、弓矢取ての面目、何事か是に若かん、永く子孫に傳へ、我家の龜鑑となすべしとて、獅子に牡丹の幕の紋、改て檜扇に鷲の羽をぞ付けまける、花園院の御時、正和の頃、貞季が後、安東太郞堯勢、相摸入道高時に背く、高時諸國の軍勢を催して、これを討つ、楠河內判官正成も、催促に隨ひて、馳せ向ひし抔とも申なり、堯勢が子安東太郞貞季、陸奧の國守北畠源中納言顯家卿の姫君に添ひ參らす、是れ貞季は、無二の宮方なりし故とぞ聞えける、貞季が嫡男安東太郞盛季が八代の孫舜季か子愛季に至りて、出羽國秋田の城に移り住む、初め貞季が二男安東二郞庶季1、出羽の秋田を討て、移り住む、其子孫九代にして絕えぬれば、愛季秋田を合せて領せしなり、凡そ此家に、湊の安東太郞、下國の安東太郞、兩流あり、湊後に下國の家を幷せしとは此事を申すなりと云々、按ずるに、此說系圖と大に異にして、又詳なるに似たり、合せ見るべし、
  1. — 底本のまま。「鹿季」の誤植とみられる
愛季遙に織田殿に音信を通し、年毎に往來絕ゆる事なし、織田殿失せ給ひし後、豐臣家に、使者を献る事、前代に替らず、天正十五年九月朔日、秋田の城に卒す、實季父に繼て立つ、安東太郞と名乘る同き十八年の秋、關白奧に御下向ありし時、始て見參にぞ入りにける、明れば十九年、南部が家人九戶が、主に叛きし時、軍勢の催促に隨ひ、馳せ向ひ、城を攻む、朝鮮の軍起りし時、又催促に隨て、軍勢を引具し、筑紫の陣に馳せ來る、何れの時にか關白、實季が所領、いかばかりやありと、御尋ねありしに、實季いかに思ひけん、僅に租入四五萬石もや、候はんと申せしかば、さらば軍の賦役は、其稅額に隨ふべしとぞ仰せらる、此より秋田五万石といへども、實は二十餘万石ありしとなり、慶長五年の秋、德川殿奧の上杉を討ち給ふべきにて、奧方の人々は、最上出羽守義光に隨ひ、軍すべしと仰せ下さる、實季我身は病すと稱して、軍勢計りぞ差向けたる、家子秋田平之亟と云ふ者に、二千六百五十人付て、遣せしとなり斯る所に、上方にも、軍起りぬと聞て、奧の人々、取る者も、取敢へず、皆國々に迯け歸る、天下既に平きし後に、出羽守義光、實季石田等に與みせし由を訴ふ、頓て義光實季を、關東に召决せらる、大久保相模守忠隣が家にて對決せり、實季陳じて、實季元より當家に對し參らせ、二心を存ぜず、是を以て、上杉に與して、出羽國由利の郡八島の庄、自然古の城に立籠りたる敵を攻め破り、百餘人が首を切る、又石田が方人小野寺遠江守が弟、大森孫五郞が雄勝の郡に、籠りたる城をも、續て攻め落す、實季彼等と謀を合せんには、いかで味方の城を攻め、味方の勢とは、戰ふべきと申す、義光聞て、されば、實季が彼二つの城、攻め落し、首切たるは、勿論なり、東西の御敵、或は滅び、或は降りぬと聞て、後日の咎を免れんと、前度の約を變して、己が方人等を討つたるに候と申す、大御所抑も實季がかの二つの城、落せしは、いつなるらんと、仰せ下されしかば、實季畏て、さん候、自然古を破りたるは、八月の末、大森を落せしは、九月五日、石田等が軍、關が原に、敗れしは、九月十五日、實季たとへ初め彼に心を通し、謀を合すとも、其必滅びんとする事を、千里の外に、先づ悟りて、前非を悔い、後罪を免るべき謀を、廻くらさん事、いかで叶ひ候べきと申せしにぞ、重て御尋の旨もなかりける、同き七年の夏、佐竹を秋田へ移されし時、實季常陸國茨城の郡を賜て、宍戶の城に移る、五万石と云十年九月三日、秋田城介に任し、從五位下に叙す、實季が望みしは、若し侍從に任せずんば、秋田城之介に任せらるへしと云、大坂前後の戰に、將軍家の先陣うつて上り、首四十四切て獻れり、其後家を子息伊豆守俊季に讓て、致仕す、實季後に伊勢の朝熊に流されて死したり、
古き人の語りしは、實季子息に家讓る時、僅か一萬石の地を與へて、五萬石の賦役を勤めさせ、其餘悉く自ら押取て、郡中の民に、租稅重く課せ納めしむることは、さて置きぬ、家作り垣結ひ竈塗り窓穿つにも、元服し、妻迎へ、嫁入し、子產むにも、一々に錢を賦して、責めはたりし程は、貧しき民は、自ら軒傾き壁破れぬれども、修し作らん事、いかにも叶ふべからず、男は髻とりあげ、女は鐵漿つくべき程、遙に過きぬれども、只いつも、童の樣にしてのみありけり、父子兄弟、こぞり居て歎き苦しむ、まして俊季が主も從者も、苦み窮りし事、いふに及はず、それだにあるに、我子の事、筋なき事を訴へなどしければ、終に流されたり、其後俊季が大坂の城、守るとて上りしに、道に出迎ひて、對面すべき由を云ふ、其心子息を害せんとするにあり、俊季が家人等、早く察してければ、事を左右に寄て、對面を許さゞりしとなり、實季が振舞も、か程にはあらざりけめど、苦める民共の、餘りにあしさまに、云はんとて、斯は傳へしなるべし、されど大相國家の御聽にも達して、罪蒙りし事なれば跡方もなき事にてもあるまじきなり、
河內守俊季、始め安東太郞と申し、大坂の軍起りし時、父と共に馳せ向ふ、明る元和元年正月廿六日、從五位下伊豆守になさる、此年の夏、大坂に向ひ、天王寺の合戰に、自ら鎗とつて、能き武者一騎、突き伏せ、首取て、御陣に參る、同き五年、將軍家の仰にて、河內守に改任し、正保二年七月、所領の地加へられて、陸奥三春の城を領す、五万五千石、又は五万八千石とも云ふ年五十三歲にして、慶安二年正月三日に卒す、大坂の城を守りて彼所にて卒せしなり、嫡子安房守盛季、家を繼き、五万石二男淡路守季久、所領分つ、五千石、初には右衞門と申せしなり盛季寬永十八年十二月廿九日叙爵し、延寶四年正月十三日卒す、是も大坂城中にて卒せしなり、其子信濃守輝季、寛文二年十二月廿七日叙爵し、父卒して家を繼く、