家一覧 › 第十上 › f134
小出
この家によく出る人物・地名
人物 徳川家康 20小出秀政 19豊臣秀吉 16小出秀家 13小出吉政 12小出三尹 12小出吉英 11小出吉親 10豊臣秀頼 6片桐且元 4小出吉重 3小出吉久 3松平信吉 2小出縫殿(吉英二男) 2小出正重 1中村一氏 1大政所 1小出重堅 1上杉景勝 1石田三成 1細川藤孝 1忽必烈 1今川義元 1今川氏真 1
地名 摂津国大坂 7和泉岸和田城 6但馬出石城 6丹後国 4丹波国 2但馬国 2美濃国関ヶ原 2朝鮮 2尾張国中村 1和泉国 1明 1駿河国 1上方 1京都 1関東 1丹波国園部 1
其先祖審ならぬ由を申す也、或人云く、秀政尾州中村の人、秀吉と同所に生れたれば、幼より相親み、其後秀吉に仕て、奉公の勞を重ねしかば、終に岸和田城を賜ひしとぞ、按するに岸和田を賜りしは天正十二年の後なるべし、夫迄は中村式部少輔一氏、此城に在りし事、創業記に見えたり、今彼城に殿守あり、所の者申すは昔此城には播磨守秀政の居給ひし故、殿守をば上げられたり、此人は太閤の親しき御外戚にて候ひし故に、御許蒙り給ひしと承ると申なり、多門院日記には、小出播磨守は大政所の妹を妻にして、太閣一段の御意合なりと見えたり秀政男子四人あり、嫡子大和守吉政、後には播磨守二男遠江守秀家三男大隅守三尹四男甚太郞重堅と云ふ、大和守吉政、文祿四年但馬國出石の城を賜へり、
太閤薨し給ひし後、景勝中納言が上洛せざりし罪に因て、德川殿征伐の爲に、奧に下らせ給ひし時、秀政は老病に臥しければ、自らは向ふに及はず、二男の遠江守秀家に、軍兵附て差向く、秀家が事、關原の諸記には吉辰と記す其跡にして石田三成が計ひにて、秀賴の仰と稱して、德川殿の御方人細川三位法印が丹後の國を攻むべしとて、丹波但馬の軍勢を向けらる、大和守吉政其催促に隨ひ丹後國に向ふ、關が原の軍終て後、遠江守秀家が初より御方に候ひしに因て、父と兄との事、何の恙なく本領安堵す、播磨守秀政老病に堪へずして終に世に交らず慶長九年に至て六十五歲にして卒す、初め太閤小出播磨守秀政、片桐市正且元を以て、秀賴の御傳になさる、薨し給はん際に臨て、彼の二人を御枕近く召されて、いかに汝等承れ、我家の天下は我一日も世に在らん程ばかりぞ、我失せなん後は、亡びんこと遠きにあらず、斯く世に在らん程、我家亡びざらん事を計らんとするに、本朝の災また立所に在りぬべし、彼を思ひ此を計るに、此七年が程、朝鮮を討ち大明と戰ひ、兩國に仇むすびし事こそ、我が一生の不覺なれ、我なくなりなん後、彼國に向ひし十餘万の軍勢、生て歸らんこと思もよらず、夫れも亦希有にして免て歸り來る事もこそ有るべけれとも、あやしの鳥獸も、仇を忘れぬは生ける者の習ひなり、ましてや大國の君臣をや、など此年月の仇報はんと思はざらん、さなきだに元の世祖の、本朝討たんとせしこと、遠き鑒にあらずや、其時に至て秀吉が後、誰あつてか本朝の動き無らん樣を計るべき、只德川の內府こそ此事には堪へぬべけれ、此人若し本朝の大勳を致されんには、神明も其德を感じ、聖主も其功を褒め給ひ、士民悉く其惠に懷き其威を恐れて、天下自ら彼家風に歸しなまし、物の心をも分たぬ輩が、なまじひに秀吉が私の恩、忘れかねて幼き秀賴を、主になし立てんなど計て、彼家と天下爭はんとせんには、我家自ら亡びんこと、踵を廻すべからず、抑も本朝人皇の初より、今百皇の御末に至り給ふまで、異賊の襲來、凡そ二十餘箇度に及ひぬれども、終に一度も彼が爲に、傾き破られしことなしとこそ聞け、今秀吉が時に至りて、上は萬乘の寶祚を危くし、下は四海の生靈を亡されんこと、最口惜かるべき事ならずや、よしや本朝の爲に秀吉が家を顧みず、我が後の天下の事、內府の計らはん樣に任すべしと思ひ定たり、去れども此人昔今川義元が由緣を思て、氏眞を駿河國に返し入れん事を計り、故右大臣殿の好を忘れかねて、信雄を助て秀吉と戰ふ、是等皆信を守り義を重んずるが故なり、秀吉又此年月親しう語らひて、旣に結れたる中となりぬ、されば我家の事、情なくは振舞はじ、汝等我世嗣の絕えざらんことを思はゞ、相構へて此人に能く隨て、秀賴が事惡しう思はれぬ樣にすべし、さらば又我が世嗣絕えざらん幸もありぬべし、此事ゆめ〱忘るゝこと勿れと仰せ置かる、然るに太閤薨し給ひて幾程無く、奉行等が頻に德川殿を失ひ參らせんと謀る事を、秀政且元深く歎き思ひしかど、制し止めんとするに力及はで、秀政は病と稱して己が岸和田の城に籠り居て、世の成り行かん樣を窺ふに、德川殿奥に向はせ給へば、二男をば御供に參らせたり、其後又上方に軍起りて、秀賴の仰也と披露あつて、殊に丹波但馬の軍勢を催して、丹後國を攻めらるゝ上は、彼と云ひ是と云ひ、秀政辭すべき所にあらず、嫡子吉政をば向はせしと見えたり、德川殿も此人他人の例に準ずべき者ならねば、吉政丹後を攻めしこと何の御咎もなし、其後市正且元も、かの仰せ置かれし御言葉を思て、秀賴の御母子を諫め參らせし者なりと或書に委しく記し置きたり○按ずるに誠に此說の如くならんには、太閤の仰せ置れし事、やんごと無く、哀れにも又尊くもこそ覺え奉つれ、去ながら斯る天下の大事をば、當時其勢重からぬ彼二人にのみ仰せ置るべからず、家の事をも司れる奉行等には、猶も仰せ置るべき事ぞかし、夫に失せ給ひし後、幾程なく頻に德川殿失ひ參らせんと計り、かの仰せ置れし如く、終に世の亂れ仕出して、彼御家終に絕え給ひてけり、若し朝鮮の軍も既に事故なく終りしかば、今は外國の患もなし、去らば、此人失ひて當家の禍無らん樣を計らんと思ひしにや、覺束なき事共こそ猶多けれ、思ふに是は太閤家の人の、我等が舊主の百歲の後、天下は人の天下になりぬべしと、知し召されぬにはあらず、本朝のため思ひ給ふ故に、自ら我家の事をば顧み給はざりし者なりと云ひしに非ずや、若くは又市正且元が兼て大坂の軍起らんとせしことを知て、去る勇々しき人なれば、常に斯くこそ仰せ置かれしかと諫め參らせたりしも知らず、總て此書には疑しき事は、闕て記さねば、本文には略して大略を爰に註しぬ、
明れば元和元年の夏、兵再ひ起りし初、東國の加勢として金森出雲守可重、吉英が城を守る、其後吉英大坂に向ひ戰て、首百十七切て獻る、同き五年出石の城に移る、五万石この人保科彈正忠正直が娘を妻とし、大御所の御姪婿にて男子多く設けぬ嫡男修理亮吉重に所領讓りて、寛文六年三月九日八十歲にして卒す、何れの年に、致仕したりと云ふ事を知らず修理亮吉重、父が讓を受け舍弟等に所領を分つ、吉英か二男縫殿二千石是は後に保科彈正が世嗣と成て主水と云、三男宮内二千石四男主殿千石、嫡男修理亮が領する所は四万五千石也と云延寶元年十二月十二日致仕して、同二年正月十八日六十八歲にて卒す、嫡男備前守吉安、父が讓を受けぬ、二男有馬伊豫守豐範は、外伯父中務大輔忠賴が養子と成る、三男左近、所領を分ち讓りぬ、開發の田千五百石
元和元年五月七日、大坂の軍敗れて城中に火懸りしかば、人々皆大御所の御陣に參り集うて賀し申されけるに、大隅守召されて御前に伺候せり、大御所あれは如何にと仰あつて、城に向ひ指さゝせ給ひしに、三尹唯一目見て、かゝるうたてき御事こそ候はねと申す、人々こは如何に不思議の御答を申す者かな、いかなる御不審をや蒙るべきと、大に驚く、大御所聞召され、汝は故太閤の所緣に付て、彼家には疎からぬ者也、斯く思ふこそ道理なれと仰せ下され、あはれに思召したる御氣色、見えさせ給ひけり、歡び申し後れじと、爰に參集りたる人々の中に、太閤家の舊恩蒙りし輩は、世に耻かしき事にぞ思ひける、此後も大御所宿老の人々に向はせ給ひ大隅守が申せし所、神妙の至なりと御感最も淺からず、此事岩淵夜話別集等にも見えたり三尹1寬永十九年四月廿九日に卒す、其子與平治有宗、家を繼き万治三年十二月廿八日叙爵して、大隅守に任じ、寛文八年九月四日六十一歲にて卒す、嫡子三左衞門有重、父に繼て其年十二月廿七日叙爵し大隅守に任ず、
- 三尹 — 底本のまま。「尹」の判読は確信が低く、意味は不明