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宗

第十上 · 段落 15 · 780525 22コマ Rから

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對馬守平義智は、太政入道淸盛公の四男新中納言知盛卿の末孫なり、初め知盛の卿西海にて失せ給ひし時、一人の孤子あり、乳母の夫右馬助惟宗の某、むつきの中に隱くして筑紫の地に遁る、成長の後元服させ、己が姓に成し易へて宗右馬太郞と名乘らす、其後北殿と申して七人の男子あり、彼が男宗右馬の彌次郞、左衞門尉に任ず、寛元四年に對馬の國に押し渡て國人阿比留を討つて、終に當國の地頭となつて、太宰の少貳に屬す、是れ此家の對馬を領せし始とす其子右馬七郞助國繼く、文永十一年十月五日或は三日とも云ふ申の刻ばかりに蒙古の賊船則ち大元の兵當國淺茅の浦に着く、酉の刻に及んで國府の地頭所に襲ひ來る、助國八十餘騎を率して發向し、翌の日卯の刻、矢合せす、蒙古の兵千人計り皆おり立て駈け向ふ、宗右馬二郞同彌二郞が眞先駈て矢庭に敵四騎射て落す、其後互に入り亂れさん〱に戰て、助國を始として右馬二郞が養子彌太郞同八郞刑部亟、郞等三郞兵衞次郞庄太郞、浪人肥後國江井藤三郞等十三人、枕を並べて討死す、蒙古是れより壹岐の嶋に押寄す、此嶋の守護代平內左衞門尉景隆も戰死す、九國の軍勢十万騎、博多の津に馳せ集て防き戰ふ、同月廿日蒙古戰負けて引退く、今宵風雨夥しく吹き落て、敵の船共、岩に摧け波に漂うて、死する者共數を知らず
按ずるに系圖には、助國が討死せしこと弘安元年大元の兵襲ひ來りし時の事とす、大に誤れるに似たり、帝王編年集成に載する所、本文の如し、是より後の戰ひども、當家の事に預らぬは略しぬ、集成には助國を右馬允と記しぬ、
今に對馬の海邊、師大明神と崇め祀れるは、此助國が社とぞ承る、其子右馬允經茂太宰府に在り、其子右馬允賴茂、建武三年五月將軍尊氏卿に隨て、筑紫より攻め上り、攝津國和田の御崎の戰に、大勢の敵を討ち破り、勸賞として九州の侍所を承り、又刑部少輔に任ず、世の人鬼刑部とぞ申しける朝鮮の書に宗慶と記せしは、此賴茂が事なり賴茂が法名を宗慶と云ひしなり、其子右馬大夫尙茂、朝鮮の書に謂ゆる靈鑑は尙茂が法名なり其子讃岐守貞茂が時、應永廿六年1六月廿日、異賊當國佐護鄕に襲ひ來り、貞茂がために打破られ、散々になつて迯け歸る、
  1. — 底本のまま。応永26年(1419)の応永の外寇の際の対馬宗氏当主は宗貞盛で、宗貞茂は応永25年(1418)に死去している
系圖に此時の事をも蒙古襲ひ來ると記せり、誤れるか、此年は明の太宗永樂十七年に當り、朝鮮も世宗莊憲王の元年なり、大元亡びて五十二年に及び、高麗亡び朝鮮となりても、二十三年になれり、凡そ我朝の人、異賊をむくりこくりと云ひしは蒙古高勾麗の事なり、蒙古則ち大元にて、高勾麗は高麗の昔の名なり、此頃は兩國共に亡びて跡方もなし、何所の國の賊船にやありけん、不審、
其子讃岐守貞盛、父に繼き、嘉吉三年始て朝鮮と相約し、歲每に船五十艘を彼國に渡して、あきものを交易す、彼國の王又年每に米豆各二万石を此嶋の主に送らる、時に朝鮮莊憲王正統八年の事也其子刑部少輔成職繼く、成職卒して嗣なし貞盛が弟盛國が子貞國を嗣とす、貞國繼いて讃岐守に任し我國より朝鮮に行く船は、必對馬の國に來て守護の符受て渡ること、此頃よりぞ始りたる、初め嘉吉元年公方普廣院殿、赤松滿祐入道が爲に討たれ給ひし後、赤松誅伐あるべしとて諸國の軍勢を召さる、太宰少貳嘉賴少貳の系圖には賴興と云催促に隨はず、大內介持世御敎書を賜て、少貳を追討す、嘉賴戰負けて對馬の國に落ち來る、
其後嘉賴本國を攻め取らんと、對馬の軍勢かり催し、肥前國上松浦に押渡り、大內が爲に破られて引返す、嘉賴死して後、應仁元年嘉賴が子敎賴、又對馬の勢を催して博多と宰府との間なる見月の地に押渡て、大友幷に大内が守護代の爲に破られて討れ死す、文明元年大內介政弘が山名宗全入道に與みせしに因て、慈照院殿少貳に仰せて大內介を伐たせらる、讃岐守貞國大に悅ひ、軍勢を催し敎賴が男賴忠を具して、太宰府に押渡り、終に三前二嶋を討ち隨へ、再ひ少貳が家を興し、軍兵を止め置て博多の津を守らせて本國にぞ歸りける、
少貳太宰府に入り、程なく肥前國小城の郡の住人牛頭晴氣兩家の千葉、不和なりしを、貞國を差向けて晴氣の千葉を助く、貞國これを諫むれども、少貳更に承引せず貞國が戰ひ利なくして、軍勢を博多に止め守らせて、我身は本國に歸りしなり、○按ずるに少貳の系圖幷に九國の事記せし諸記に、敎賴が子政資とのみ錄して賴忠と云ふ者を見ず、思ふに賴忠慈照院殿より御諱字を賜て政資と改めしなるべし、又肥前の軍記に敎賴細川右京大夫勝元が旨に任せて、對馬より出て宰府に入て、大內が爲に討たれ、其子政資高祖の城より打出て、大內が勢を討破り筑前の國を得たりと云々、
貞國が子刑部少輔材盛、其子讃岐守義盛に至て、永正七年正月廿一日、惠林院殿より御諱字を賜ひ、又屋形號を許さる、同年義盛朝鮮と不快の事出來て、子息能登守盛弘を大將として彼の國に差向く、同四月盛弘朝鮮に押渡り、多くの城々攻め破て熊川の城に押寄す、敵の軍勢雲霞の如く馳せ集り、散々に防き戰ふ、盛弘終に多勢の中に討れ死す、其年は三十一歲、此年六月盛弘が靈、本國豐島の浦高崎の濱に顯れたり、國人大に恐れをなし一つの社を建立し、高崎大明神と崇め奉る、扨も少貳六郞政資、本領安堵せしに、年を經て大内左京大夫義興が爲に又戰ひ負け、明應六年四月十九日、肥前國多久の城にて腹切て死す、嫡子新少貳高經も、同國盛福寺の城を落され、廣瀧山にて自害しぬ、其弟の僅十歲なるを、馬塲橫山の者共、綾部の城に隱し置き成長の後、少貳資元と名乘らせ、累代の家人等を招き集む、當時大內に從ひし國人等悉く馳せ參る、大內安からぬ事に思ひしかど、是處彼處の戰に暇なく、未だ少貳と戰ふに及はず、大友豐後守政親、資元を婿とす資元又讃岐守義盛に就て、將軍家になげき申しければ、惠林院殿の仰として資元肥前守になされたり、されば少貳が滅びし事、再度に及ひしに昔の契を違へずして、二度まて彼家を起せしこと、宗が情ぞ深かりし、盛弘が男彥二郞盛永、祖父義盛に繼て後、朝鮮と中和き是より又兩國の往來長く絕えず、盛永が七世の孫對馬守義智、父義調に繼て立つ、天正十五年の夏、豐臣關白筑紫に向ひ給ふ時、義智御陣に馳せ加りて本領を安堵せり、去年十四年關白、朝鮮に使立て、兩國好み結ばれん由を宣へども、彼國の王李昖敢て隨ひ參らせず、十八年の春、義智仰を承り、家人柳川下野守調信等を引具し、自ら彼國に渡て、兎かく拵へし程に信使來聘すべきに極て、同七月彼使具して都に上り、殿下に參る、關白の御感淺からず、頓て侍從になされ、羽柴の號を賜る、又朝鮮の軍勢を催して、大明に攻め入らんことを仰せ合はされしに、彼國の王又敢て隨はず、安からぬ事なり、さらば先づ朝鮮を攻めよやとて、文祿元年の春より軍起り、義智一方の先陣にて彼國に押渡り、彼處此處にて戰ふこと凡そ七年、太閤薨し給ひてこそ彼の戰は止みてけれ、斯て慶長五年の秋、大坂の兵起りて、德川殿失ひ參らせんとす、手合せに先づ伏見の城を攻む、義智この時國に在り代官として柳川下野守調信、大坂の催促に隨ひ、軍勢を率ゐて伏見の城を攻め落し、又大津の城を攻め下す、上方の軍敗れし後、義智罪免されて本領を安堵す、此時義智大坂に馳せ上り自ら兵を引具し戰ひしと云ふば誤れるにや
按ずるに今此家の所領二万石の地は、肥前に在り、是れ對馬は彼先祖累代傳領の國と云ひ、又其國に稻生ずべき水田なければ、軍の武役は免除せられぬと云ふ、肥前の地二万石賜ひしこと、何れの時にや未だ知らず、
同き九年朝鮮の使僧松雲、對馬の國に來て義智に就て、德川殿と長く兩國の好み修めん由を議す是室町殿の御時の例也大御所此由を聞召し、彼望み請うに因て、此七年が程の戰に、擒にして我國に以て來りし彼國の人民、悉に送り返し給ひければ、彼國の王大に悅ひ、明れば十二年の夏、兩御所へ信使參らせて隣國の好みを結ぶ、此等の事義智、德川殿の御德を彼國へ傳へ播しけるに因て、斯く隨ひ參らせしかば兩御所の御感斜ならず、彼の家直に大名の列に加へられ、十万石の列に加る位必四品に上り官必侍從に至ること、其功を賞せられし故とぞ承る、
我國よりも御使ありて、彼の聘禮に答へ給ふべしとありしに、彼國王固く辭し申されしかば、其事止みて今も彼國よりのみ使は來れり、是れ室町殿の御時の例とは替れり、これは我國の人の、彼國に入る事を恐れ憚りし故とぞ承りぬ、
同き十四年より、昔の如く對馬の船、年毎に二十艘を朝鮮に渡し、釜山港にして交易の利を通せんことを約し、十七年に至りて又其船の數を添ふ、彼國より大明の朝廷に奏聞して、御許を蒙れる所なり、大坂の軍起りし時、軍勢を引具し馳せ向て城を攻む、明れば元和元年正月三日義智四十八歲にして卒す子息彥七郞義成繼く、大坂の軍再ひ起りしには、鎭西の人々は參るに及はず、同き二年四位侍從兼對馬守になさる、明曆三年十月廿六日に卒す、