對馬守平義智は、太政入道淸盛公の四男新中納言知盛卿の末孫なり、初め知盛の卿西海にて失せ給ひし時、一人の孤子あり、乳母の夫右馬助惟宗の某、むつきの中に隱くして筑紫の地に遁る、成長の後元服させ、己が姓に成し易へて宗右馬太郞と名乘らす、其後北殿と申して七人の男子あり、彼が男宗右馬の彌次郞、左衞門尉に任ず、寛元四年に對馬の國に押し渡て國人阿比留を討つて、終に當國の地頭となつて、太宰の少貳に屬す、是れ此家の對馬を領せし始とす其子右馬七郞助國繼く、文永十一年十月五日或は三日とも云ふ申の刻ばかりに蒙古の賊船則ち大元の兵當國淺茅の浦に着く、酉の刻に及んで國府の地頭所に襲ひ來る、助國八十餘騎を率して發向し、翌の日卯の刻、矢合せす、蒙古の兵千人計り皆おり立て駈け向ふ、宗右馬二郞同彌二郞が眞先駈て矢庭に敵四騎射て落す、其後互に入り亂れさん〱に戰て、助國を始として右馬二郞が養子彌太郞同八郞刑部亟、郞等三郞兵衞次郞庄太郞、浪人肥後國江井藤三郞等十三人、枕を並べて討死す、蒙古是れより壹岐の嶋に押寄す、此嶋の守護代平內左衞門尉景隆も戰死す、九國の軍勢十万騎、博多の津に馳せ集て防き戰ふ、同月廿日蒙古戰負けて引退く、今宵風雨夥しく吹き落て、敵の船共、岩に摧け波に漂うて、死する者共數を知らず
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宗
この家によく出る人物・地名
人物 宗義智 11少弐政資 9宗助国 7宗貞国 7少弐嘉頼 7宗頼茂 6徳川家康 6宗盛弘 5少弐資元 5豊臣秀吉 5少弐教頼 4宗義盛 4宗尚茂 3足利義稙 3平知盛 2宗知宗 2宗右馬次郎(文永役) 2宗貞茂 2世宗(朝鮮) 2宗貞盛 2宗成職 2赤松満祐 2大内政弘 2足利義政 2
地名 朝鮮 14対馬国 12元 11九州 7筑前国太宰府 5摂津国大坂 5筑前国博多 4高麗 4肥前国 3壱岐国 2筑前国 2明 2山城伏見城 2西海道 1対馬国浅茅浦 1対馬国府中 1肥後国 1対馬師大明神 1摂津国和田岬 1対馬国佐護 1豊前国 1肥前国上松浦 1筑前国見月 1肥前国小城郡 1
今に對馬の海邊、師大明神と崇め祀れるは、此助國が社とぞ承る、其子右馬允經茂太宰府に在り、其子右馬允賴茂、建武三年五月將軍尊氏卿に隨て、筑紫より攻め上り、攝津國和田の御崎の戰に、大勢の敵を討ち破り、勸賞として九州の侍所を承り、又刑部少輔に任ず、世の人鬼刑部とぞ申しける朝鮮の書に宗慶と記せしは、此賴茂が事なり賴茂が法名を宗慶と云ひしなり、其子右馬大夫尙茂、朝鮮の書に謂ゆる靈鑑は尙茂が法名なり其子讃岐守貞茂が時、應永廿六年1六月廿日、異賊當國佐護鄕に襲ひ來り、貞茂がために打破られ、散々になつて迯け歸る、
- 貞茂が時、應永廿六年 — 底本のまま。応永26年(1419)の応永の外寇の際の対馬宗氏当主は宗貞盛で、宗貞茂は応永25年(1418)に死去している
貞國が子刑部少輔材盛、其子讃岐守義盛に至て、永正七年正月廿一日、惠林院殿より御諱字を賜ひ、又屋形號を許さる、同年義盛朝鮮と不快の事出來て、子息能登守盛弘を大將として彼の國に差向く、同四月盛弘朝鮮に押渡り、多くの城々攻め破て熊川の城に押寄す、敵の軍勢雲霞の如く馳せ集り、散々に防き戰ふ、盛弘終に多勢の中に討れ死す、其年は三十一歲、此年六月盛弘が靈、本國豐島の浦高崎の濱に顯れたり、國人大に恐れをなし一つの社を建立し、高崎大明神と崇め奉る、扨も少貳六郞政資、本領安堵せしに、年を經て大内左京大夫義興が爲に又戰ひ負け、明應六年四月十九日、肥前國多久の城にて腹切て死す、嫡子新少貳高經も、同國盛福寺の城を落され、廣瀧山にて自害しぬ、其弟の僅十歲なるを、馬塲橫山の者共、綾部の城に隱し置き成長の後、少貳資元と名乘らせ、累代の家人等を招き集む、當時大內に從ひし國人等悉く馳せ參る、大內安からぬ事に思ひしかど、是處彼處の戰に暇なく、未だ少貳と戰ふに及はず、大友豐後守政親、資元を婿とす資元又讃岐守義盛に就て、將軍家になげき申しければ、惠林院殿の仰として資元肥前守になされたり、されば少貳が滅びし事、再度に及ひしに昔の契を違へずして、二度まて彼家を起せしこと、宗が情ぞ深かりし、盛弘が男彥二郞盛永、祖父義盛に繼て後、朝鮮と中和き是より又兩國の往來長く絕えず、盛永が七世の孫對馬守義智、父義調に繼て立つ、天正十五年の夏、豐臣關白筑紫に向ひ給ふ時、義智御陣に馳せ加りて本領を安堵せり、去年十四年關白、朝鮮に使立て、兩國好み結ばれん由を宣へども、彼國の王李昖敢て隨ひ參らせず、十八年の春、義智仰を承り、家人柳川下野守調信等を引具し、自ら彼國に渡て、兎かく拵へし程に信使來聘すべきに極て、同七月彼使具して都に上り、殿下に參る、關白の御感淺からず、頓て侍從になされ、羽柴の號を賜る、又朝鮮の軍勢を催して、大明に攻め入らんことを仰せ合はされしに、彼國の王又敢て隨はず、安からぬ事なり、さらば先づ朝鮮を攻めよやとて、文祿元年の春より軍起り、義智一方の先陣にて彼國に押渡り、彼處此處にて戰ふこと凡そ七年、太閤薨し給ひてこそ彼の戰は止みてけれ、斯て慶長五年の秋、大坂の兵起りて、德川殿失ひ參らせんとす、手合せに先づ伏見の城を攻む、義智この時國に在り代官として柳川下野守調信、大坂の催促に隨ひ、軍勢を率ゐて伏見の城を攻め落し、又大津の城を攻め下す、上方の軍敗れし後、義智罪免されて本領を安堵す、此時義智大坂に馳せ上り自ら兵を引具し戰ひしと云ふば誤れるにや
我國よりも御使ありて、彼の聘禮に答へ給ふべしとありしに、彼國王固く辭し申されしかば、其事止みて今も彼國よりのみ使は來れり、是れ室町殿の御時の例とは替れり、これは我國の人の、彼國に入る事を恐れ憚りし故とぞ承りぬ、