天正五年畠山修理大夫義隆毒殺せられ、家臣七尾の城に據りて信長に屬し、能登大に亂れければ、義隆の伯父上杉彌五郞義春越後に在りて是を聞き、謙信に斯くと告ぐ。謙信卽ち師を出して、義春先陣して七尾の城を攻め落す。此の時長九郞左衞門、重連七尾にて畠山が長臣温井三宅に殺さる。重連が弟恩光寺使僧となりて、信長に此の由を申せば、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉、瀧川一益、氏家卜全等四萬許にて打立ち、八月五日加州手取川を涉り永島に陣取りたり。謙信は能登一州悉く旗下に附け、八月朔日兵を返して、加州にて長が一族の首七つ、倉部柏野の間なる濱に竿結ひ渡し掛け並べ、札を書きて立てられたり。松任の城主蕪木右衞門大夫と和平し、信長著陣を聞き、松任にて軍評定し、一戰すべし、と手配あり。七尾旣に落ちて、謙信之迄打向はれたり。爰にて合戰無益なりとて、引き退くべし、と信長の陣々色めき立つ。恩光寺人に首を見するに、名のみにて面貌異なり。上方の軍の押來るを聞き、謀を以で長一族の首を僞り設けたるならん。能州を棄て松任に在るは、後詰を防がん爲なる可し、といふを聞きて騷も鎭りけり。卽夜戌の刻に及んで恩光寺、柴田、木下が陣に行き、先には味方一同に敗北す可き色有るを見て、謀りて申せしなり。七つの首は吾父兄弟にて候ふ、と告知せしかば、爰にて合戰す可からず、とて信長引返さる。恩光寺是非一軍と乞へ共聞き入れず。恩光寺は後信長の命にて還俗し、長九郞左衞門連龍と言ひしは此の人なり。連龍父兄の弔合戰を志し、信長の下知を請け、越前に至りて柴田に賴みけり。勝家越前の大橋に札を立て、長九郞左衞門能州に發向す。立身を志す輩は我被官たりとも參るべし、と書きたりければ、相集る士八十餘人、天正七年三月二日能州穴水の城に入り、舊好の者共馳せ集り百人に及べり。上杉より有坂備中を七尾に置きけるが、長曾撿見與十郞を大將として押寄せ戰ふに、長敗北して危かりしを、谷大學討死し、長漸く引き取りたり。紀州士鈴木因幡、初長に親有り。北越に居て今能州に來り、長有坂を和平し、從者は陸長は船にて有坂が方に來るべし、との使に鈴木來りしに、長を殺害すべき色あり。長に從へる石黑大膳、井久留了意、合田民部、木島小介、如何す可き、といふ。石黑、今七尾に徃かば必ず害に逢はん。船中にて鈴木を殺して退くべし、と勸む。長聞きて、汝が志悅ぶべし。然れ共陸より囘る家人皆殺されなん。吾獨生くべき義無し、とて七尾に往き、法道寺に入りて、遂に有坂に對面す。殺害に極めたれども有坂事故なく長を歸しけり。松川兵部、今日長を討漏し殘多く候。押寄せて討たん、と言へ共有坂聞き入れず。長は石動山にかゝり越中に赴く。石黑、敵寄せ來らんに殘る者無くば口惜きなり。姓名を賜はり候へ。敵を支へて討死せん、と言へ共、長、汝を捨殺し、吾獨生きて何の面目有らん、といふ。石黑、言ひ甲斐無き事を承るものかな。本意を遂げられなば、吾子孫を取り立て給はれ、といふ處に、七尾の商來りて、敵押寄する、といふ。長は石動山にかゝり、石黑は物具して待て共敵來らざれば、後より乘り附けて共に越中に赴き、神保安藝守氏春の許に居たり。後長は前田の家に仕へて、淺井畷に武功有りしは此の人なり。長後又恕庵と稱しけり。