信長弑せらるゝ時、東照宮は泉州堺に御座しましけるに、小勢にて斯る亂れに遙々三河へ如何でか引き取らせ給ふべき、と人々色を失へり。東照宮素より地理を知召され、河州飯森の宮は要害の地なれば、其地を守りて軍有らん、と仰せありて、森口に著かせ給ひし時、本多忠勝京都に御使に參りけるが、道にて變を聞き引返して來り、敵大勢にて候らはん。疾く御歸國然るべからん、と申すを聞召し、案內者は如何すべき。敵道を要らんは必定なり。闇々と討たれんは口惜からずや、と仰せ有りける處に、信長より馳走に附けられし長谷川竹丸、當國の交野郡津田の邊は、信長の恩を蒙りたる者の數多候へば、道しるべさせ候べし、と申す。宇津越を經て山城の相樂郡を過ぎ木津川を涉り、夫より宇治橋の上一里許東の瀨を涉り、江州信樂に出でられたり。伊賀の上野鹿伏兎越を、伊勢の白子に至りて船に召され然るべからん、と定められけり。忠勝蜻蛉斬と名附けし鎗を提げ、其の邊の百姓を打具し、此殿の案內申せ、と言ひて、夫より道道の村々にて斯くしたりければ、津田よりも案內者來りぬ。其日は山城相樂郡山田村に宿らせ給ひ、所々より心を寄せし人々共數多警衞し奉る。穴山梅雪は之迄從ひ奉りしが引き別れけり。
○東照宮和泉國堺より御歸國の事
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其翌日木津川に至らせ給ふ。柴船二艘あり。忠勝借らんと言ふに肯はざれば、憎い奴かな切つて棄てん、と言ふに恐れて乘せ奉る。軈て涉り終らせ給ひて、二艘の船皆打割りて棄てたり。其の明けの日、一揆石原村に集りて待ちかけたり。大和より從ひ奉りし吉川善兵衞、其子主馬助柏の木を馬標にして、先駈して追ひ拂ふ。柏を家の紋にせよ、と仰せけるとぞ。夫より宇治田原の地士山口玄蕃御膳を獻じて、宇治川に至らせ給へば船無し。榊原が士原田左衞門馬を乘り入れ瀨踏して打涉す。酒井忠次船一艘を探し出して渡し奉り、雜卒に至るまで皆渡る事を得たり。江州信樂迄は嶮路なれども、警衞に附き從へる人々多く、一揆手さす事もなし。多羅尾四郞兵衞光敏は、世々信樂を領しけるが、其子長兵衞御迎ひに參りたり。人の心計り難しと人々恐るゝ處に、忠勝、否々光敏御敵するならば、彼が家に入らせ給はずとも逃し奉らじ。一向入らせ給へ、と申せば、皆尤なり、とて立寄らせ給ふに、御饗應を設け人々勞を忘れたり。
五日には高見嶺を打越え給ふ。御供に候ひける服部半藏正成は、元伊州生れの人なれば、忠勝下知して伊賀の案內したりけり。國士數多參りて警衞し奉りて、上柘植より三里半許鹿伏兎越といふ深山を越え給ひて、六日に白子の浦に著かせ給ひて、長谷川竹丸秀一後藤五郞を始として和州山州伊州の士に御暇給はり、時を得て濱松に參るべき由懇に仰せを蒙りけり。夫より三河に事無く歸らせ給ひぬ。伊賀は去年九月信雄攻め入りて打從へられし比、逃げ隱るゝ者を求め出し、殺害を專とせられしかば、國士共三河に參りて、御恩を蒙りたる人々多かりしかば、其從類皆警固し奉りけるとなり。軈て明智を追討の爲御軍を出されしに、伊賀の國士共集りつどひて參りけるを、多くは大番に入れさせ給ひ、恩賞に預りけり。