常山紀談本文データベース

目次 › 卷之五 › e137

○小寺黑田始末の事

卷之五 第24話 · 段落 1 · NDL 1078984 110コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

黑田美濃守職隆後宗圓と稱すは備前國福岡の人なりしが、播磨の小寺藤兵衞政職に仕へて、子官兵衞孝隆後如水と稱す共に功名有て用ひられけり。播州は其比所々に人々地に據りて守り軍せしが、小寺は五著に有りて姫路に小城を構へ、黑田父子此處に有りて、秀吉に賴みて信長の旗下に屬す。孝隆の子長政、其比は松千代と言ひしを、人質にして秀吉の居城近江の長濱に置きたり。此比毛利家の兵勢强かりしかば小寺約を變ぜんとす。孝隆、此は然る可からず。信長物荒き人なれ共、一旦天下に旗を擧げられん。行末は知らず先時の宜しきに隨ふべし。松千代を棄つるを悲み、斯く申すに非ず、と諫めけり。小寺聞き入れず、孝隆父宗圓に父子共誅せられぬべき密謀を告ぐ。宗圓物慣れたる士五六人呼び集め所存を問ふに、官兵衞、五著に到られなば危かる可し、と言ふ。孝隆、然れば諫は尤なれ共、事も見ずして姫路に立籠らんは、君に弓を引くに非ずや。五著に赴きて力を盡し、奉公し叶はずば自害せん。其後人々心を合せ、父の御事賴み任する由決斷せられしかば、人々父子押隔てられんは如何候べき。只病とて五著の奴原に使をもて、媚び諂ひ欺くに如くべからず。討手來らば力無し。其後一戰を遂げて五著を打破るべし。罪無くて討んとする惡逆の人天の咎無からんや、と口々に言へども、孝隆、各存ずる旨は誠に理なれども、今病と言はんに實とは聞き入れじ。必ず主君に叛くと人に誹られん事士の志に非じ。君に深く思ひ入りたる忠の空しくならんは運の極なれば力なし。我一人誅せられたりとも如何にせん。此姫路をだに取られずば、天下の安危歲月を經ずして定るべし、とて止まる色の見えざれば、宗圓、家の恥を思ひて身を捨てんと思ひ定むる事士の志なり。疾く五著に往きて事叶はずば自殺せよ。後の事は心安く思ひ候へ。君の志違ふとも我叛く可からず、と言ひしかば、孝隆打笑ひ、然らばとて座を立てば、人々、只今思召し切られての仰は遺言に非ずや。若し五著にて難を遁れ給はずば、其時人々五著の城を枕にせん、と誓ひけり。宗圓、官兵衞は官兵衞の志をせよ。人々は人々の志をせよ、と下知せられしかば、孝隆五著に赴きけり。宗圓見送り、子ながらも恥しき事なり。先だつべき親の留りて子に死ねと言ふこそ口惜けれ。然れ共君恩淺からざるは人の存ずる處なり。今讒言を信ぜらるゝこそ悲しけれ。孝隆を遣らずして引籠り謀叛して、命は惜き物ぞと敎ふるは父の道に非ず。仇となりて身を殺すは恥を知る道なりけり、とて潸々と泣きたりけるが、さぞ五著にて謀りて見んに、今姫路に弓を引く設なしそ。酒宴して時々舞謠ひて日を送れ、と言ひしとぞ。孝隆は五著に行きて、心置くべき人の許に使して求め來れる肴有りとて饗し、しめやかに語りて打解けたる體なれば、如何に繕ふとも心の外に現れぬ事はあらじ、など言合へり。又此を疑ひて、黑田父子は謀逞しき者にて良き士數多有り。城に籠る用意せん間に、官兵衞を以て欺く可きも計り難し、とて姫路の樣を聞くに、宗圓金剛に舞舞はせて打解けたる體なれば、偖ては別の事も有らじ、と言へり。此時攝州荒木攝津守村重は毛利に屬し、信長と戰ひ利あらずして有岡の城に引籠る。此由小寺聞きて孝隆を呼びて、我毛利に與すべきとは內々荒木と言ひ交したる故なり。今毛利家に賴らん事は我過なりと覺ゆるぞ。然れども此儘にて手切をせんに表裏者と言はれんも口惜ければ、疾く有岡に行いて荒木を諫めて、若し聞き入れば秀吉に謀りて信長と荒木和平を取行ふべし。攝州信長に從はば、我も眞に心を飜して信長に從ふべし、と言へば、孝隆聞きて、信長と荒木と和平は思ひ寄りも候はず。荒木度々信長に背きたれば如何で其言を信ぜらるべき。參りたり共徒事ならん。然ども辭し申せば勇無きに似たり、とて有岡に赴く路、姫路に立寄りて父子對面し、有岡に至らば必ず首を刎ぬべきか、押へて囚とするか、二つの中に過ぎ候まじ。五著に死んより有岡にて死候へば、信長も聞き又世の譽ともなり候べし、と思ひ切つたる色を宗圓見て淚に咽び、暫時物をも言はざりしが、稍有りて、誠に困厄の至極なれ共、名に換へて身を捨つるは義を思ふ故なり、とて見送りしかば、孝隆有岡に赴きたり。小寺兼て村重に密に毛利に一味すべきに、黑田父子人質の松千代を信長に出し置きたれば、彼の父子は織田に內通の志有りと告げ知らせつれば、有岡の本丸に呼び入れ生虜りて牢に押込みけり。五著に此由聞えしかば、小寺僞て齒嚙をなし、荒木が狼藉の次第遺恨深し。然れ共此上は信長に一味の心を易へて毛利に與し、官兵衞を引取る謀や有るべき、と言はせしかば、宗圓怒りて、官兵衞生虜に成りしかば是非の論なし。年老たる身の子を失ひし事は誠に力なき次第なり。然るに官兵衞を救はん事謂無きに非ざれ共、先松千代を信長に出せし事は、君も又臣父子と相計れる處にて候に、今度官兵衞を有岡にて捕へたるは、荒木が橫樣の振舞なり。相計れる處の人質を棄てて、押止めたる者を救くべきは逆ならずや。只順道に隨ひて天の冥見を待つに如かず。我若き時より度々の軍に臨み、小寺の家の危難を救ひしに、今齡傾き、賴み切つたる長子を棄て候事は口惜く候へ共、首を碎かるゝ共、毛利に一味せよとの仰をば得承らじ、とて刀を抽き誓つてければ、使も言なくて歸りけり。宗圓が士共五著を攻め破らんと言へども用ひず。村重心有らば勞るべし。若し五著を攻めなば村重も官兵衞を殺害すべし。知らぬ樣にて在れよ。斯く有らんと思ひて官兵衞が女房をば潛に此比引取り置きたり、とて驚かず。村重は小寺に賴まれて孝隆を生虜たれ共、己が仇にも非ざれば勞り置けり。斯くて信長有岡を攻むるに及びて毛利家の後卷もせざれば、城落ちたりけり。孝隆は牢の中に呆れて有りける處に、栗山備後其時善助時々有岡に行きて忍びて商家を語らひ、牢の後の沼より姫路の事ども語りし事度々にて、案內をしたりければ、牢に走り行きて見れば番人も落ち失せたり。此れはと驚き且悅びて、善助棄て置きたる斧にて鎖を破り、引立てけれ共三年居屈み、其上に濕瘡を病て起つ事能はず。傍なる牢中の人を賴み抱負はせて城を出で、寄手の陣に行き、偖て姫路に歸る事を得たり。秀吉播州に攻め入るに及びて小寺は但馬に落ち行き、黑田父子危難を脫るゝ事を得て、孝隆に宍粟郡を賜り、姫路を秀吉の城とす。後に如水と稱して智謀逞しく、秀吉の功臣第一と聞えしは此の孝隆なり。