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○薩摩勢根白の砦を攻むる事

卷之八 第12話 · 段落 1 · NDL 1078984 155コマ R

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天正十五年二月秀吉島津を討たるゝ時、大和大納言秀長、近江中納言秀次八萬餘、島津が豐後府內より薩摩へ引退く後を追うて亂れ入り、高城賤部の城を取圍み、附城五十一ヶ所築きたり。中にも耳川を越えて、根白の砦には宮部善祥坊繼潤、木下平大夫貞基、龜井新十郞廣政、鹽屋隱岐守光成、福原右馬助直高一萬餘にて守りけり。是は島津が後卷を防がん爲なり。頃は四月十七日の朝、島津使を根白にたて、高城の城を渡すべし。士卒を助け給はり候へ、と言送りければ、宮部、五十丁隔てたる秀次へ此旨申して後、兎角の返答を申さん、とて使を返して後、斯欺きて怠らせ、思ひも寄らぬ所へ寄すべき謀なり。其用意せよ、とて人夫千人俄に山々の竹木を伐らせ、陣の前に深さ二間廣さ三間許の空堀を構へ、柵木を結ひて我も〱と物具して待つ所に、物聞に出したる者共走り歸り、敵押寄せ候、と言ひも果ぬに、義弘一萬六千餘の兵を率ゐ、閧を揚げて攻め寄せたり。宮部木戶口に進み出で、一番鎗と名乘りて相戰ふ。田中九介其子彥六、國友半右衞門、三村三郞右衞門を始め、大剛の兵共先を爭ひて切つて出で相戰ふ。義弘も義久の子にて素より聞ゆる勇將なり。薙刀を提げ眞先駈けて、只今此城蹈み破れ者共、と呼はり、多勢堀を越え冑の錣を傾け、蟻の如く柵の木に附きて引破らんとする時、兼て巧みたれば控の綱を斷ちて柵を堀の中へ倒せしかば、薩摩武者討るゝ者八百餘人に及べり。義弘愈怒り進んで、屍を蹈み越えて內の柵に攻め寄り、透間も無く戰ひけるが、內の柵をも打破り、十八日の朝三の丸を攻め取つたり。宮部を始め愈死地に入りたれば、爰を限と防ぎ戰ふ。斯りしかば秀長三萬許にて耳川に打向ひ、根白の方を見渡せば、薩摩の軍兵雲の如く取卷きて、鐵炮の音閧の聲矢叫相交り、天地も動く許なり。川を渡らんと進まれけるに、尾藤左衞門尉知宣、秀長の馬の轡を取つて、義弘が鋒武田四郞が長篠の掛り口に似たり。關白秀吉も叶はせ給ふ可からず、と强て留ければ、旣に川へ打入りたる馬を控へて進み得ず。藤堂高虎は手勢を率ゐ川を渡し、搦手より根白に駈け入り自ら鎗押取り、敵數多突き伏せて宮部に力を合せけり。黑田孝隆同長政も手の者を引分け進み行く道より、村上彥右衞門と云ふ剛の者を遣して、唯今秀長六萬の兵にて後卷せられ候、と呼はらせければ、宮部を始め大に勇み悅べり。長政の士栗山後藤川を涉り、義弘の陣に切つて懸る。秀長の士大將羽根田長門守と千許の兵にて、黑田父子に劣らじと鎗を打入れ攻戰ふ。小早川隆景も三千許にて耳川に來る。秀長、今敵陣に懸る可きと存ずれども人々同心せられず。如何すべき、と問はるれども、降景1冷笑物を言はず。斯る所に井上伯耆就遠、浦兵部宗勝、古き背破の物具著て進み出で、島津は今日の客人なり。訪ひ來るに出迎はずば弓箭の禮儀に違ふべし。軍評定と申す事や候、と秀長を嘲りけれども、進む氣色の無りければ、降景2馬を打入れて川を渡り、敵の後陣を取切らんと進まれければ、是より薩摩の軍亂れて敗北しければ、義弘の從子三郞忠親踏み止りて討死しけり。黑田小早川使を秀長の陣へ遣して、味方は八萬に餘れり。鐵炮三千許左右の嶺を取り切り打立つる程ならば、義弘を打取らん事掌の中に有り、と申されけれ共、知宣堅く留めて追はざりしかば、義弘敗軍の士卒を集め、所々に火をかけ引取りたり。後れたる士卒五十餘人戰ひ疲れたるを生捕りて引來る。助けて歸さん如何に、と言へば、是見られよ。生きて又歸らじと紙に書きて髻に結附けて候ぞ。疾首を刎ねられ候へ、とて皆殺されけり。薩摩の人の勇氣こそ由々しけれ。秀吉宮部には日本無雙と言ふ感狀を與へ、尾藤は領國讚州を召放されけるとかや。
  1. 誤植 — 底本「降景」。振り仮名「たかかげ」から「隆景」の誤植か。
  2. 誤植 — 底本「降景」。「隆景」の誤植か。