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○大谷吉隆平塚爲廣最後合戰和歌贈答の事

卷之十三 第21話 · 段落 5 · NDL 1078984 226コマ R

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越前敦賀の城主大谷刑部少輔吉隆は、會津征伐に從はんとて兵を出さんとせしに、石田三成より樫原彥右衞門を使にて、强て佐和山の城に來られよ。密に評議すべき事有り、と云はせけるに、此は心得ずと思へども是非を論ぜず强ひければ、止事を得ずして佐和山に至る。三成悅んで、今度關東を討亡すべき謀をぞ語りける。大谷驚きて、故太閤常に德川殿の智勇の備りたるを崇敬御座しましき。今德川家を打亡さん事思ひも寄らず、と言ひければ、三成、我上杉景勝と計りて景勝旗を揚げられたり。其約を變じて景勝一人を攻殺させん事本意に非ず。運を天命に任するの外道なし。豐臣家の恩を厚く蒙りたる身なれば、秀賴公の御爲に斯く一大事を思ひ立ちたるぞかし。など豐臣家の恩を忘れられしや、と言へば、大谷、さらば力なし。命を秀賴公に奉りて、今度の軍に討死すべし。但し斯る一大事を思ひ立たれんには思慮すべき事二つ有り。申出して見ん、用ひらるゝや、と言へば、三成、如何で所存を防ぐべき、と悅びしかば、大谷が曰く、世の人石田殿をば無禮なりとて、末々に至りても快からず言合へり。江戶の內府は只今日本一の貴人なれども、卑賤の者に至るまで禮法あつて仁愛深し。人の懷き從ふ事大方ならず、是一つ。次に大事は智勇の二つならでは遂げ得難し。石田殿は智有りて勇足ざるかと存じ候。今度毛利、浮田も皆假に同意したる人々なり。必ずしも賴みとす可きに非ず。水口の長束と計り、內府關東に歸路の時、石部邊にて旅宿の時夜討して火を掛け、十死一生の軍せば勝利疑無きに、可惜圖を外されぬ。內府關東に歸られけるは虎を千里の野に放つが如し。十全の勝を計られなば又圖を外して悔むとも益あらじ。此上は命を秀賴公に奉るの外他の道なし。士卒は皆平塚に下知せさせて候へば、其志許し難しと雖も、よも別の事は候はじ、とて伊益の驛に至り平塚に告ぐれば、平塚大に驚き、三成志大なりと雖も大軍を率うべき將畧なし。然るに斯く與せられしは禍を招くと言ふべし。然れども旣に許諾せられたれば如何とも爲べからず、とて三成が送り來りし使者には、心得候、とぞ答へける。吉隆敦賀に歸りしに、關東勢岐阜を攻落しけると聞きて、敦賀を打出でて關ヶ原に到りしが、秀詮の裏切を元より悟りければ、僅に六百餘の陣を一手になし、關ヶ原に押し出し、鎗衾を作りて秀詮に向ふ。吉隆は目を病みて士卒は皆平塚に下知せさせ、練絹の小袖の上に村蝶を墨にて書きたる鎧直垂を著、四方取はなしたる竹興1に乘りたるが、秀詮裏切して討つて懸られしかば、大谷齒を嚙み、秀詮の不義骨髓に徹せり。敵の旗本を目にかけて切つて入るべし、と下知しければ、木下山城守、大谷大學、戶田武藏守重政、平塚因幡守爲廣、今日を最後と思ひ定め、面も振らず切つて懸りしかば、秀詮の先陣立足も無く敗北す。され共藤堂高虎を始め、東國の軍押駈け進み來れば、秀詮の先陣盛返して討つてかゝる。されども死狂ひする鋒先に、秀詮の先陣又追立てられけり。爲廣敵數多討取り、其首を吉隆に送り、此首自ら討取候。冥途の苞に參らせ候。日比の約束只今討死し候ひなん、とて自害候て、人手にかゝらざれ、と言遣し、外に歌一首書添へたり。
  1. 誤植 — 底本「竹興」。振り仮名「たけごし」から「竹輿」の誤植か。
吉隆使に向ひて、武勇といひ和歌といひ感ずるに餘有り。早や自害して追附け再會すべし、と答へて、甥の祐玄といふ僧に返を書せて使に渡しけり。
契りあらば六の巷にしばし待ておくれ先だつ事はありとも
斯くて平塚は戰ひ勞れて、畔に腰かけ息吐ぐ處に、小川土佐守祐忠が兵樫井太兵衞鎗を提げ步み寄る。平塚立上り、我は平塚因幡守なり、とて散々に戰ひけるが、終に倒れながら十文字の鎗を投出し、汝が重寶にせよ、とて討たれけり。戶田重政も思ふ程切つて廻り討死したりければ、大谷が軍敗れて吉隆自害しけり。行年四十二歲とかや。岩佐五介首を羽織に包み、其邊の田の中に埋み、先手に向ひ討死しけるを、藤堂の士大將藤堂仁右衞門其首を取りて御旗本に奉りけるに、東照宮、五介は聞ゆる者なり。缺唇なるべし、と仰せ有りけるに、然有りしとぞ。