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○黑田大友石垣原合戰の事

卷之十五 第11話 · 段落 5 · NDL 1078984 253コマ R

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關ヶ原亂の時、大友義統木附の城を攻むると聞きて、如水後卷せられしかば、大友立石に引退き、石垣原に先陣を押出す。黑田の士大將久野治右衞門歲若しとて會我部1五左衞門を添へられしが、敵四五千許立石の民家を後に當て待ちかけたるを、久野遙に見て金の天衝の指物さし、栗毛なる馬に乘り懸れ、と下知しけるを、會我部2、今暫し待たれよ、早くば勝利候まじ。下り立ちて馬に息吐がせ、一同に割籠つかはせ、後に味方の續かん時衝懸り一戰すべし、と言へ共聞入れず。久野が從者荒卷軍兵衞と言ふ者豐前の地士なりしが、若き時宮松と言ひて十五歲より功名せし剛の者、五右衞門が詞尤なり。馬に當て倒し蹴散すと申すは敵によるべし。今日の敵は國替の時能く知りたる者にて皆物師なり。近年落ぶれて此亂を死すべき時節と思ひ定め、鎗を膝の上に置き靜まり居たる所へ、一騎二騎ばら〱と駈合はせんに如何で勝つべきや。鎗を突折る程の軍ならでは叶ふべからず、とて馬より飛び下り、久野が馬の口に取附き、若氣ながら餘りの逸り樣にこそ候へ。後陣に先を越さればこそ恥ならめ。後に押詰めん時に懸りて突崩すべし、と云ひけるに、平田彥右衞門といふ者馬に乘りながら、否々後陣を待たんとせば、井上、野村すゝどき男なれば必ず先を爭ふべし。大友が者共木附にて疲れ又爰に來りたり。進め〱、と言ひければ荒卷怒つて、平田、汝と共に豐前の者なるが、度々手なみは知つたるよ。今井の濱の軍に汝を追駈けて、具足の押附切つたりし疵は有るべきに、其後四兵衞治右衞門が父汝を呼出すとて問はれし時、汝が健氣さに討止めざりきと言ひつる故に祿を得しかば、我陰と悅びしは忘れたるか、と言ひ捨てて馬に乘り先駈すれば、二十騎許續いたるを押詰めて懸りけり。敵三手に分れたるを一陣を突崩す。久野逸りたる者なれば少もためらはず、一文字に乘込み戰ひけれ共、大友が兵共度々の事に慣れ、今度の亂れに故主の招きに從ひ、今日を限りと芝居にひたと折敷き待ちかけたれば、久野主從五騎一所にて討たれけり。會我部3は久野が討たれたる所に橫合に駈入りて討死す。平田は久野が討るゝを見て馬を引返して引退きぬ。荒卷は敵競ひ掛るを見て、いざ引かんとて人數を集むるに、敵嚴しう進むを見て、首をば皆捨てさせ、馬に輪を懸けて引きさがり、後殿して引退きけるが、久野が討死を知らざりし故、其日の功名徒に成りにけり。黑田の二陣の士大將井上九郞右衞門元房後に周防と云野村市右衞門後隼人といふ遙に跡にて閧の聲を聞き、此山に上りて敵の軍立を見拔くべし、と井上手の者に下知し進み行く。野村、先に軍有るは分明なり。何見分くる事の有るべき、と言へ共、井上が陣押固めて通さざれば、今少し先に押出されよ。廣き所にて陣せん、と言へども聞入れざれば、獨言して怒りける所に、井上主從三騎小山に乘り上げ、指物を拔いて味方を招き陣を進めけり。
  1. 誤植 — 底本「會我部」。振り仮名「そがべ」から「曾我部」の誤植か。
  2. 誤植 — 底本「會我部」。「曾我部」の誤植か。
  3. 誤植 — 底本「會我部」。「曾我部」の誤植か。
井上、唐冠の冑、鳥毛の棒の指物したりと言へり。又佩楯を取つて捨てければ、井上が手の者、すはや激しき軍よ、と勇めるとなり。
井上、野村、敵は皆步立なり。馬の駈場を賴む共、必死の敵に輕々しく懸り難し、とて皆馬より下立ち、勝に乘つたる敵にて殊に譜代重恩の士共、今日を限りと思ひ定めたるなれば、敵懸るとも相懸すべからず。待軍して突崩したりとも足を亂して追ふべからず、と下知し、靜々と押懸る。大友が兵是を見て、疎駈せば忽ち突崩さん、と思ひしに違ひけり。野村は朝鮮にて漢南の軍に功名し、膝に手負ひ行步心に任せざれば、片輪者にて候程に馬に乘り候、と言うて下知しけり。石垣原は原の中に高さ一丈餘の石垣土手六七町許も續きてけり。井上、野村は石垣を此方に取らば軍に勝つべし、と進みければ、敵も同じく進んで石垣を踰えんとせしを、突崩したれ共逃ぐるを追はず。井上鎗を橫たへ押止め、野村は馬を乘廻し兵を整へたり。大友の士大將吉弘加兵衞、宗像掃部是を見て、斯くては味方負軍なるべし。敵勝に乘りて足を亂さん所を追立てんと思ひしに力無し。とても討死せんと思ひ定めたれば、いざ懸らん、とて二千許靜々と步み寄る。井上、野村是を見て少しも騷がず、折敷きて相懸にもせず待ち懸けたり。間近く詰寄せて散々に突合ひ切合ひて、大友勢一町許引退きけれども追ひも懸らず。元の芝居に跪きて心靜に息を吐ぐ。大友勢又押懸りて、爰を專途と火を散して戰ひけり。吉弘は尖眉刀を打振り、今日を最後と振舞ひけるを井上見て、いざ參り合はん、と詞をかくれば、吉弘打笑ひ渡し合せしが、草摺の端を十文字の鎗に突かせて、深手なれば少し退りけるを、小栗治右衞門が從者弓を持ちたるが眞中を射貫く。吉弘心猛しと雖も、終に叶はで首をば小栗取りてけり。
又一說に、吉弘は黑革にて威したる甲を著、熊毛にて錣を飾りたる冑にて、三尺許の刀を以て井上と馬上にて渡し合ひ、馬より突落されしが脇差を拔いて手裏劍に打つ。井上が弓手の股に中る。其間に小栗引組んで吉弘が首を取ると言へり。又一說に、吉弘と井上は、吉弘一年中津に有りて親み深かりしかば、此日井上に向ひて、珍しや一鎗參らん、と言うて突合ひしが、吉弘が胸板を二鎗まで突きけれ共、甲堅くて裏かゝず。井上、吉弘が內冑を突きけるに、十文字の橫手にて忍の緒を切り、冑傾きて目を塞ぎければ少し退りける處を、吉弘が左の脇より下著の靑く出づるを目に懸て脇腹を突きたりしかば、吉弘遂に討たれしともいへり。又此軍場の後に吉弘が厲鬼現れ、往來の人に祟をなしける故、吉弘が緣の人石垣原の傍別府といふ所に吉弘が屍を葬りてけり。別府、淸田、濱田の百姓瘧を惱めば、米を供ふるに忽ち瘧落ちけり。吉弘が嫡子は淸正に仕へ、二男は細川忠興に仕へしが、父のなき跡を見んとて別府に行きて其印の石を拜せしが、多く米を供ふるによりて鳥の集りて糞に穢れしかば、今より武具を供へたらば治し給へ。さなくば治し給はざれ、といひしが、是より米を供ふるに驗なし。木刀を作り供ふれば驗有りといへり。
宗像も井上も從者大野勘右衞門と引組みたる處に、勘右衞門が弟休也と云ひし法師武者走寄り、掃部が脇腹に刀を突立て、えいや、と跳ねたりければ、遂に其處にて討たれけり。大友の勢突崩されてはさつと引き、又押懸り戰ひけれども、井上、野村追駈けず、元の芝居に跪き、又懸れば立ち上り、突退け幾度といふ事を知らず。大友が勢終に打負けて殘り少く討たれしかば、僅許になりて立石に引返す。義統力盡きて如水に降參せられけり。